少し前───────
遠くで二度目の鳴き声がした。今度はフィロンにも、先ほどより明らかに近づいていることが分かる。ガウーワの母親はかなり大きく、まだ姿が見えない距離からでも声だけはよく通った。意味も聞き取れる。帰ってきなさい、今すぐ、もう待ちません。
フィロンが人間だった頃にも、日が暮れてなお路地で遊んでいる子供へ、似たような調子で怒鳴る母親はよくいたものだ。種族が違っても、いつまで経っても帰ってこない我が子に向ける声はそう変わらないらしい。
「お母さん呼んでるから、私かえるね」
ガウーワはそう言って、前脚をひょいと胸の前まで上げた。そのまま一度だけ左右へ揺らす。本人としては、じゃあね、のつもりなのだろう。レオンハルトはその仕草を見るなり顔色を変え、岩についていた手を離した。
「お、置いてくなよ!」
咄嗟に腰まで浮かせようとして、固定された左脚へ痛みが走ったらしい。「っ……」と小さく呻いたきり、中途半端な姿勢で動かなくなる。フィロンは頭を持ち上げて添え木を確認した。
ずれてはいない。とはいえ、痛むから動くなと言われた十歳の子供が、本当に一度も動かずにいてくれるかは別の話である。医者をしていた頃にも、安静にと言ったそばから起き上がる患者には何度も出会った。子供に限った話ですらない。
「しかしね、私が帰らないとお迎えがくるのよ。それっていちばんマズイでしょ」
ガウーワが困ったように耳を倒す。レオンハルトも理屈そのものは理解しているらしく、何も言い返せずに口をへの字へ曲げた。それでも、知らない山の中へ怪我をしたまま残される方としては、はいそうですかと送り出せるはずもない。少し考えた末、何とか妥協点を見つけたように両手を合わせる。
「そこはほら……ご両親に俺を紹介して……」
「だーかーらー、同族とおしゃべりできないの。細かいニュアンスなんて伝わらないから、ガウーワ初の狩りに成功! みんなでおやつに食べましょうコースになる可能性が高いよ」
ガウーワは自分の胸を前脚で示し、それからレオンハルトへ向けて伸ばした。狩りました。持って帰りました。その程度なら身振りだけでも十分通じそうなのが、かえってよくない。
「多少骨が多くて食べにくくても、我が子が狩ってきた獲物はうれしくて食べるでしょ。親なら」
「そんなはじめてのおつかいみたいに……」
絶望したように呟いたレオンハルトを見て、ガウーワの耳がぴくりと動く。
「あの番組、うしこしさとしの時代までやってるんだ……」
また二人にしか分からない話が始まった。フィロンは口を挟まずに聞き流す。どうやら二人は生まれた時代が微妙にズレているらしく、時々こうして知らない人名や見世物の話を始めるのだ。
いま話しているものは長く続いた見世物らしいので、人気があったのだろう。フィロンがそこまで考えたところで、三度目の声が山の向こうから響いた。今度はガウーワまでびくっと身体を揺らした。
「じゃ、じゃあほんとに帰るね。フィロンいるから大丈夫だよ!」
「その言い方、大丈夫じゃないやつだろ! ガウーワ、せめて人がいるところまで行って誰か呼んで……いや待て、勝手に山を下りたら神獣が村に出たとかで大騒ぎになるのか?」
そこまで言って自分で行き詰まったらしい。レオンハルトは両手で顔を覆った。ガウーワも困っている。フィロンにも、どれが最善なのかは分からない。
人間の集落へ神獣が一頭で近づくのは、少なくとも穏当な知らせ方ではないだろう。それなら、この場で捜索に来る者を待つ方がまだいい。
レオンハルトがいなくなってからそれなりの時間が経っており、家族もいるという。外国から来た一行の子供が一人山で行方不明になって、誰も探していないとは考えにくかった。
「ガウーワは帰っていいよ。私がここにいる。彼らが探しているなら、そう遠くないうちに誰か来るだろう」
フィロンが声をかけると、レオンハルトは指の隙間からこちらを覗いた。あまり安心している顔には見えない。ガウーワも同じことを思ったのか、フィロンとレオンハルトを交互に見比べた。
「フィロン強いの?」
「蛇としてなら、それなりには長く生きているよ。変温動物だからね、残念ながら彼を暖めてやることは出来ないが、風を避けるくらいなら工夫出来る。それに、あまり大きくない動物なら近づいてきても追い払えると思う」
積極的に他の獣と争った経験は少ない。争って怪我をするくらいなら逃げた方がいいし、食べる必要のないものを殺す理由もなかった。それでも蛇として長く生きてきた以上、鼠や兎に負けることはない。
狐ほどになると少し嫌だが、こちらが身体を持ち上げて威嚇すれば、向こうから避けていくことも多かった。白い身体が珍しいのか、何だこいつ、という顔で数歩固まってから逃げていった狐もいる。一度など、逃げる途中で木の根に躓いて転んでいた。見なかったことにしてやった。
「鹿は?」
「鹿は無理だね」
そこだけは自信を持って答えられる。かなり昔、まだ今より小さかった頃に若い鹿と鉢合わせたことがあり、向こうも驚き、こちらも驚き、最終的には踏まれかけて岩の隙間へ逃げ込んだ。それ以来、大型の草食動物とは互いに関わらない方が平和だと思っている。特にこのあたりの鹿は大きすぎる。きっとガウーワの言う『鹿』は脚が6本ある彼らのことなのだろう。考えるまでもなく、勝てない。
「ゲルハルトさぁん……」
レオンハルトがしくしく泣き始めた。先ほどまで神獣だの主人公だの人生だのと話していた子供とは思えないが、足を折って山の中に取り残されかけている十歳なのだから、本来はこちらの方が自然なのかもしれない。
むしろ今までよく持ちこたえていた。ガウーワは気の毒そうにレオンハルトを見て、それからもう一度前脚を上げる。先ほどよりだいぶ申し訳なさそうな、じゃあね、だった。
「ほんとにごめんね。人間が来るまでフィロンと一緒にいて。明日また来るから!」
「明日じゃ遅いんだって! ……いや、もういい。行ってこいよ。お母さん近づいてきてんだろ」
レオンハルトは涙を拭って手を振った。ガウーワも一度だけ鳴き返し、雪を蹴って走り出す。何度かこちらを振り返りながら木々の間を抜け、やがて白い身体が見えなくなった。
二人きりになると、急に山が静かになった。風が木々の間を抜けて、雪の表面をさらさらと撫でていく。
日が傾けばさらに冷えるだろう。レオンハルトは魔法の施された外套を着ているとはいえ、怪我をして動けない。フィロンは周囲を一度見回してから少年へ近づいた。自分の体温を分けてやることは出来ない。むしろ直接触れればこちらの方がレオンハルトという恒温動物で暖を取るかたちになりそうだ。
それでも、風を受けて外套の裾が開き続けるよりはましだろうと考え、布の上から腹のあたりへ胴を軽く回した。締めつけるつもりはないので、かなり余裕を残してある。
「なんか蛇に巻かれてるって考えると怖いな……」
「では外そうか?」
「寒いからそのままでいい……」
結局どちらなのだろうと思ったものの、本人がそれでいいと言うなら構わない。フィロンはそのまま頭をレオンハルトの膝の横へ置いた。少年はしばらく鼻をすすっていたが、やがて泣き疲れたのか静かになり、時折思い出したように森の奥へ目を向けるだけになった。フィロンも周囲へ意識を向けながら、時々レオンハルトの顔色や呼吸を確かめる。痛みはまだ強いようだが、添え木をしてからは少なくとも悪化している様子はない。
それから、しばらく何も起こらなかった。木々の間から見えていた空の色が少しずつ変わり、風も先ほどより冷たくなる。雪の落ちる音に何度かレオンハルトが顔を上げ、そのたびに違ったと肩を落とした。
途中、一度だけ遠くで枝が大きく鳴って二人とも身構えたものの、現れたのは丸々と太った鳥だった。こちらを見るなり飛んでいったので、レオンハルトが露骨にがっかりした顔をする。鳥に助けを期待するのも酷な話である。
人の気配が近づいてきたのは、ガウーワが去ってからそれなりの時間が経ち、レオンハルトが何度目か分からない溜息をついた頃だった。
そして今。
最初に聞こえたのは、複数の人間が雪を踏む音だった。枝を掻き分ける気配が重なり、荒い息の合間に短い声まで混じっている。一人や二人ではない。フィロンが頭を持ち上げるのと、レオンハルトが顔を跳ね上げるのはほとんど同時になった。
「人だ!」
声が思いきり裏返った。間もなく木立の向こうから、先頭を切って一人の男が現れる。山歩きに慣れているのか、足場の悪い雪の中でも迷いなく進んでいた。肩には銃を掛け、身につけているものも他の者よりずっと山向きに見える。おそらくこの土地の猟師だろう。
その少し後ろから白い肌の学者風の男が続き、さらに体格のいい褐色肌の若者、その後方にも何人もの人間が姿を見せた。褐色の肌をした者が多く、レオンハルトと同じ国から来た人間なのだろうと見当がつく。服や靴は揃って雪と泥に汚れ、遠目にも疲れが見えた。それでも誰一人のんびり歩いてはいない。これだけの人数で、土地を知るらしい猟師を先頭にこんな山奥まで入ってきたのなら、まず間違いなくレオンハルトを捜している者たちだろう。よかった。これでようやく引き渡せる。
その予想を裏づけるように、猟師らしい男の後ろから体格のいい褐色肌の若者が顔を覗かせた。こちらを見た途端、大きく目を見開く。視線はフィロンではなく、その身体に半ば隠れるように座っているレオンハルトへ真っ直ぐ向いていた。
「レオン!!」
若者は先頭の猟師を追い越すように雪を蹴った。足場を確かめる暇すら惜しいらしく、危うく転びかけながらこちらへ駆けてくる。見つけた。生きていた。それしか頭にないような勢いだったが、数歩も進まないうちに別の声が鋭く飛んだ。
「止まれ!!」
白い肌の学者風の男だった。先ほどまで疲れの滲んでいた顔から一瞬で表情が消え、駆け出した若者だけでなく周囲の全員を制するように片手を上げている。若者は反射的に足を止め、先頭にいた猟師までその場で身構えた。あまりに強い声だったので、フィロンもつられて身体を固くする。もともとレオンハルトへ巻きついたまま動いていなかったので、特に意味はない。
「全員、その場から動くな。武器にも触るな。絶対に近づくな」
男が見ているのは、泣きそうな顔で救助を待っているレオンハルトではなかった。その視線はずっとフィロンへ据えられている。
ひどく警戒されているらしい。どうしてだろうと自分の身体へ目を落とし、そこでようやく思い当たった。フィロンは今、レオンハルトの外套が風に煽られないよう、その上から胴をゆるく巻きつけている。
事情を知らない者から見れば、怪我をした子供が大きな蛇に巻かれているようにしか見えない。なるほど、これは驚く。説明した方がいい気もしたが、学者風の男は今にもこちらが飛びかかるとでも思っているような顔をしていたので、ひとまず口を挟まず様子を見ることにした。
「ブラムウェル殿、通してくれ! レオンがそこにいるんだ!」
少し後方にいた褐色肌の男が苛立った声を上げた。なるほど、白い肌の男はブラムウェルというらしい。まず一人、名前を覚えた。
「見れば分かる! だから止まれと言っているんだ。あの蛇を見ろ。白い鱗、紅い眼、それに頭部から首へ続く鱗の形……白影大蛇だ」
そうなんだ……。
フィロンは心の中で呟いた。初めて聞く名前だった。自分が蛇であることはもちろん知っているし、白いことも赤い目をしていることも承知している。
しかし何という種類なのかは、長いこと分からないままだった。この世界へ来てから同族らしき蛇を見たことも何度かあるが、彼らは自分の種族名を教えてくれない。「なんだお前」「邪魔だ」「どけ」「腹減った」「殺すぞ」くらいしか言わないので、自分たちはどういう生き物なのか情報のすり合わせはできていなかった。白影大蛇。なかなか格好いい名前がついていたらしい。
「白影大蛇って……あの? でも、もっと大きい魔獣じゃなかったか?」
「成体ならな。だから余計にまずい。あれはまだ成長途中だ」
ブラムウェルは声を低くし、こちらから一度も目を離さない。その真剣さにつられてフィロンも聞き入った。まだ、成長途中だったのか、私は……。
「あの体長なら、冠脱皮の直前と見ていい。この時期は成体以上に気性が荒れるという記録がある。もともと縄張りへの侵入者を見境なく襲う種だが、脱皮前は摂食量まで増える。刺激するな。あの距離で襲われれば、レオンハルトを巻き込まずに対処するのは難しい」
そうなんだ……。
また一つ、自分について知らない知識が増えた。脱皮が近いらしい。
言われてみれば最近は少し鱗の感触が変わっている気もするが、蛇になってから脱皮など何度も経験している。冠脱皮という言葉には覚えがないので、普通のものとは違うのかもしれない。
それにしても、自分は今かなり気が荒くなっている時期らしい。
半年に一度ほど大きめのネズミを一匹食べ、腹が減れば川で水を飲み、今日は病気の狸を診て、ついでに怪我をした子供の処置まで手伝った。
振り返ってみても、特に誰かを襲いたくなった覚えはない。少なくともフィロン本人にとっては、いつもと何も変わらない一日である。
「レオンハルトから離れていないぞ。もう何かされてるんじゃないのか?」
「分からない。少なくとも締め上げてはいないが、白影大蛇は獲物の動きを鈍らせる固有魔法を使う。毒とは違う。生き物の身体そのものへ作用すると考えられていて、近距離では特に危険だ」
そうなんだ……。
今度は魔法まで出てきた。
フィロンは少し感心した。ガウーワが寄生虫を駆除する氷を操るのを見て、自分にはああいう能力がないものだと思っていたが、実は何か持っているらしい。
何百年もこの身体で生きてきて、それに気づかなかったというのも妙な話ではある。ただ、人間だった頃にも、生まれつき片耳の聞こえが悪かった患者が、成人するまで「人間の耳はみんなこのくらいしか聞こえないものだと思っていた」と話したことがあった。最初からそうなら、それが普通ではないと気づくきっかけもない。
もし生まれた時から白影大蛇だったなら、本能のままに使い方まで分かったのかもしれないが、フィロンにはその前に人間として生きた記憶がある。
この件に限っていえば、それがかえって蛇の本能へ蓋をしていた可能性もあった。出来なかったのではなく、そもそも試してみようという発想がなかったのである。そう考えると、いざやってみれば案外あっさり出来るのかもしれない。
「ゲルハルトさん! オスカーさん!」
突然レオンハルトが叫んだので、フィロンの思考はいったん途切れた。
少年はまた泣いていた。さっきまでどうにか収まりかけていた涙が、知った顔を見た途端に全部戻ってきたらしい。こういう患者は珍しくない。
診療所まで自分の足で歩いてきた男が、迎えに来た妻の顔を見た瞬間に「実は死ぬほど痛かった、辛かった」と泣き始めたこともある。五十過ぎた男でさえこうなるのだから、子供ならなおさらだろう。安心は痛みを消してはくれないが、我慢だけは驚くほど簡単に剥がしてしまう。
「ゲルハルトさん、オスカーさん! 俺、ここ! 足、足折れて……痛い、めちゃくちゃ痛い……!」
両手を伸ばした勢いで、レオンハルトは身体までそちらへ向けようとした。
「動かない方がいい」
フィロンは反射的に胴へ少しだけ力を入れた。締めるというより、浮きかけた腰を布の上から押さえた程度である。ところが向こうからは、大蛇が泣いている子供へ巻きつく力を強めたようにしか見えなかったらしい。
「レオン! 動くな! そのままでいろ!」
褐色肌の男が叫んだ。声に驚いたレオンハルトが身体を震わせ、その拍子に折れた脚まで僅かに動く。
「いたっ……痛い! やだ、もう痛いって!」
「だから動かない方がいいと言っただろう」
フィロンは困って頭を持ち上げた。添え木は外れていないし、固定も保たれている。ただ、興奮したまま何度も身体を捻れば良いことはない。
子供というのは、痛いから動かないのではなく、痛いと泣きながら動く時がある。昔、膝を深く切った少年に「傷へ触るなよ」と言ったところ、こちらを見ながら三回触られたことを思い出した。三回目にはさすがに母親が頭を叩いて止めていた。
向こうの大人たちは、それどころではないらしい。最初に飛び出しかけた若者は今にもこちらへ駆け込みそうな顔をしている。
レオンハルトが名前を呼んだ時の反応を見る限り、あれがオスカーなのだろう。少し後ろで歯を食いしばっている別の褐色肌の男がゲルハルトかもしれない。
「ブラムウェル殿、どうにか出来ませんか! あいつ、レオンに巻きついたままだ! 食べられてしまう!!」
「今考えている! 下手に刺激してあいつごと締め殺されたら終わりだ。白影大蛇は人間を恐れない。腹が減っていなくても縄張りへ踏み込んだだけで襲われた記録がいくつもある。まして冠脱皮前なら、こちらから距離を詰めるのは危険すぎる」
そうなんだ……。
ずいぶん怖い蛇だった。別の個体の話として聞いていたなら、フィロンだって絶対に近寄らない方がいいと思う。そういえば、かつて出会った同族もこちらへ投げかける言葉の大半は「殺すぞ」だった。気性が荒いのだろう。
腹が減っていなくても襲ってくるというのは理解しづらい。自分は人間を見つけたら、まず見つからないように身を隠す方だったし、他の動物についても食べる必要がなければ放っておく。縄張りという感覚もあまりない。長く使っていた岩陰に先客がいれば、別の寝床を探せば済む話ではないか。
もしかすると、似ているだけで別の蛇なのでは。
そう考えたものの、ブラムウェルはフィロンの頭から胴まで食い入るように観察しており、あまり期待出来そうになかった。
「間違いない。文献にある亜成体の特徴と一致している。しかも、あの大きさなら脱皮直前の最も危険な姿……!」
そうなんだ……。
ここまで丁寧に説明されると、さすがにフィロンも理解できた。どうやら自分は今、蛇としてかなり危険な時期を迎えているらしい。それにしては自覚が薄い。もし本当に凶暴性が増してこの状態なら、普段はよほど気性が穏やかということになる。
「ゲルハルトさん、早く来てよぉ……俺もうやだ、帰りたい……!」
レオンハルトは鼻まで赤くしながら、今度は身体を動かさずに両腕だけを伸ばした。偉い。少し学習している。ところが向こうの大人たちは、少年が泣けば泣くほど表情を険しくしていった。
フィロンはそこで、ようやく自分たちがどう見えているのかを考え直した。
怪我をして動けない子供がおり、その子供は大人の姿を見つけて泣きながら助けを求めている。そして身体には、人間を恐れず、縄張りへ入ったものを見境なく襲い、生き物の動きを止める魔法まで使い、現在はもっとも凶暴になる時期らしい大蛇が巻きついていた。
なるほど。
これ、私がなにかしたようにしか見えないな……。
気づくのが少し遅かった。
事情を話した方がよさそうだが、レオンハルトが知人へ助けを求めている途中へ割り込むのも気が引ける。
何と切り出すべきか考えている間にも、ブラムウェルは後ろの者たちへ低い声で指示を出していた。
守護をどう重ねるか、誰を後ろへ下げるか、蛇を少年から引き離せるか。知らない言葉もいくつか混じっている。その中で、一人だけいる女性の口から聞こえる単語には、妙に耳馴染みのあるものが多かった。身につけている衣服にもどこか覚えがある。形や細かな装飾は記憶の中のものと少し違うが、おそらく神官なのだろう。
この世界の情報を集めるために教会の天井裏を寝床にしていた時期がある。その頃、下を行き来していた神官たちが似たような言葉を使い、似たような衣を身につけていた気がした。違って見える部分は、単に時代が流れたせいかもしれない。何しろ、あれはもう三百年以上も昔の話である。懐かしい思い出だ。
「待て。フィロンという医師がいるはずだ」
ブラムウェルが何かを思い出したように周囲へ視線を走らせた。雪の上、岩陰、木々の間。それからレオンハルトのそばへ目を戻す。当然ながら、そこにいるのは怪我をした少年と、その身体へ巻きついた白影大蛇だけである。
「神獣は、フィロンと一緒にいると言っていた。人の身体に詳しく、任せておけば大丈夫だと……なら、その医師もここにいるはずだ」
フィロンは頭を傾けた。自分の名前が出てきた。どうやらガウーワは、救助を呼びに行ったわけではないものの、途中でこの者たちと会って多少の事情を話したらしい。
しかし何をどこまで伝えたのかまでは分からない。少なくともブラムウェルの様子を見る限り、探している「フィロン」と目の前にいる自分は、まだ同じものとして結びついていないようだった。
ブラムウェルはもう一度辺りを見回したあと、ゆっくりとフィロンへ視線を戻した。怪我をしたレオンハルト、その身体へ巻きついている白影大蛇、そしてどこにも見当たらない医師。そこまで確認したところで、今度は別の意味で顔から血の気が引いていく。
「まさか……フィロン殿は、既に……!」
そこでようやく、フィロンにも彼らが何を考えたのか分かった。レオンハルトのそばにいるはずの医者が見当たらず、代わりに、つい先ほどまで散々危険性を説明していた大蛇がいる。
なるほど。そういう順番で見れば、あまり縁起のいい想像にはならないだろう。
「ああ、ここにいるよ」
離れた場所にいる彼らにもきちんと届くよう、フィロンは普段よりずっと声を張った。思えば、蛇になってから大声を出す必要などほとんどない。相手が近ければ普通に話せばいいし、遠ければわざわざ呼び止めることもなかった。そのせいで加減を誤ったらしく、すぐそばにいたレオンハルトがびくっと肩を跳ねさせる。
「うるさっ」
「すまない。少し大きすぎたね」
一団の視線が、一斉にフィロンへ集まった。先ほどまで最凶種の魔獣として警戒していた白影大蛇が、突然人の言葉を喋ったのだから当然ではある。
彼らの言う神獣がこれで二匹目になってしまう可能性については、少々問題がある気もした。しかし今は、そんな誤解まで一度に解いている場合ではない。まず自分がレオンハルトを食べようとしているわけでも、締め殺そうとしているわけでもなく、探しているフィロン本人であると伝える方が先だろう。
せっかく何百年も生きてきたのに、ここで危険な魔獣として討伐されるのは困る。
雪山でようやく行方不明の子供を見つけ、そのそばにいるはずの医師だけが見当たらず、代わりに最凶種の魔獣が少年へ巻きついている。
そこまでなら、彼らが最悪の結末を想像したのも無理はない。ただし、その白影大蛇こそが探していた医師本人である。フィロンとしては名乗っただけのつもりだったが、向こうにとってはそう簡単に飲み込める話ではなかったらしい。ブラムウェルをはじめ、一団はしばらく誰も動かず、誰も口を開かなかった。
その沈黙の中で、フィロンだけが、さて次は何から説明すればいいのだろうと考えていた。

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