ひさしぶりに、人間が来た。最初に気づいたのは山の下から近づいてくる話し声で、ひとりやふたりではなく、もっと大勢いるらしい。
聞いたことのない騒々しい音も混じっていたけれど、人間の声だけはどれだけ年月が経っても聞き間違えなかった。
××さまは崩れかけた社の奥でむくりと身体を起こし、長く伸びた黒髪の隙間から外を覗く。いつから人を見ていないのか、もうよく覚えていない。春が来て、夏になり、木の葉が落ち、雪が積もる。それを何度も繰り返すうちに数えることもやめてしまったが、待つことだけはやめなかった。
ここは人間が××さまにくれた場所で、自分は人間のためのかみさまなのだから、いつか誰かが迎えに来る。そう信じて、ずっとおりこうにしていた。
昔は毎日のように誰かが訪れた。米を持ってくる者、酒を置いていく者、魚や果物を供える者、何も持たずにただ両手を合わせて名前を呼びに来る者もいた。困ったことがあれば人間は××さまに頼み、山向こうから悪いやつが来ないようにしてほしい、畑を荒らしたよそ者をいなくしてほしい、娘を泣かせた旅人をどうにかしてほしいと願った。
頼まれれば、きちんと応えた。いなくなれと言われたものをいなくし、二度と来るなと言われたものを二度と来られなくしてやる。それだけでみんなはひどく喜び、太鼓を叩き、酒を飲み、火のまわりをくるくる踊ったものだった。
××さまは貢ぎ物も好きだったけれど、人間たちが嬉しそうに笑うところを見るのがいっとう好きだった。
だから声が近づいてくるほど嬉しくなった。祭かもしれない。いつの間にか片側へ傾いてしまった鳥居の向こうに、何人もの人影が現れる。
服装は知らないものばかりで、手には用途の分からない道具を持ち、大きな音を立てる見慣れないものまで連れている。それでも人間には違いない。久しぶりなのだから、いきなり姿を見せれば驚かせるかもしれない。まず向こうから名前を呼んでもらおう。
××さま、××さま、と昔のように呼ばれたなら、そのときに出ていけばいい。
「うわ、汚ねえな」
最初の人間が社を見てそう言った。声をかけてもらえたと思い、××さまは嬉しくなる。尾のあるあたりまで勝手に揺れた。
たしかに少し汚れている。屋根には穴が空き、柱は黒ずみ、床下から雑草まで生えていた。昔は人間たちが直してくれたけれど、誰も来なくなってからはどうにもならない。
自分では屋根を葺けないし、柱も替えられなかった。きっと直しに来てくれたのだろう。こんなに大勢なら、あっという間に綺麗になるに違いない。綺麗な朱色に塗られる柱は、きっととっても素敵なものだ。そうしたら、××さまはちゃんとお礼をする。人間の頼み事をなんだってきいてあげよう。××さまは人間が大好きだ。何十年、何百年、柱が朽ちるまで捨て置かれても、人間のことが大好きな神さまのままだ。
次の瞬間、柱が大きく揺れた。
右肩から指先まで鋭い痛みが走り抜け、××さまは息を呑む。腕を見る。ちゃんとついている。指もある。それなのに、もう一度大きな音がすると、今度は骨を内側から砕かれたような痛みに襲われ、その場へ崩れ落ちた。
人間たちは社を壊していた。古びた板へ道具を差し込み、次々に引き剥がしていく。板が外れるたび皮膚を削がれ、釘が抜かれるたび爪を引き抜かれ、梁へ手をかけられれば背骨まで軋む。
社はただの建物ではない。人間が××さまへ与えた居場所であり、神である自分をこの場所へ留めてきた身体の一部でもある。それを人間たちは知らないようだった。
××さまは慌てて這い出した。やめてもらわなくてはいけない。これは××さまの社で、壊してはいけないものなのだと教えれば、人間ならきっと分かってくれる。
昔、子供が面白半分に石を投げただけでも、大人たちはひどく叱った。傷んだ場所を見つければすぐに直し、新しい縄を張り、酒まで持って謝りに来たこともある。いまの人間は知らないだけなのだ。だから教えればいい。そう思って床を這った指の上へ、男の靴が落ちた。
踏まれた。男の足は何の抵抗も感じなかったらしく、そのまま向こうへ歩いていく。××さまだけが喉を引きつらせ、潰された指を胸元へ抱え込んだ。人間に踏まれたのは、これが初めてだった。
さらに大きなものが入ってきた。黄色く、低く唸り、鉄の腕を伸ばす見たこともない怪物。腹のあたりには人間が乗っている。ならば、これも人間の道具なのだろう。その鉄の先端が小さな社へ食いついた。
壁が倒れた瞬間、左脚をもがれたような痛みが走る。梁が折れれば腹の中まで掻き回され、屋根が崩れるたび頭を押し潰される。
××さまは泣きながら縋った。誰の服でもいい。誰の足でもいい。やめてほしい。いたい。これは人間がくれた大切なものなのだ。
けれど指は誰にも触れず、声も届かない。そこに××さまがいることすら知らないまま、人間たちは古木と瓦礫を次々に運び出していった。
最後に本殿が潰れた。それまでとは比べものにならない痛みが身体を突き抜け、××さまは土の上へ伏した。
目を開けられるようになったころには、もう社と呼べるものは残っていない。折れた木材と砕けた板が山積みになり、その向こうで人間たちは何事もなかったように話していた。
「全部撤去でいいですよね」
「ああ。こんなの残しててもしょうがないし」
「祠とかじゃないんですか」
「管理してる人間もいないらしいよ。土地ごと買ってるから問題ないって」
笑い声まで聞こえた。昔も人間はよく笑った。祭のときにはみんな楽しそうに笑っていたし、××さまが願いを叶えたあとにも、子供が頭を撫でに来たときにも笑っていた。だから人間の笑い声は好きだったはずなのに、いま聞こえるものは胸の奥をぎゅうぎゅう締めつける。
どうしてだろう。自分は悪いことなどしていない。ちゃんと待っていた。昔、恐ろしい人間が来て社の四方へ札を貼り、ここから出てはいけないと言ったから、それにも従った。恐ろしくても人間だったので、××さまは人間のことが好きなので、ちゃんと言うことを聞いていた。あの頃はいまよりずっと元気だったから、本当は札なんて簡単に噛みちぎることが出来たけど、出ないでねと言われたのだ。だから××さまは、出ないよと約束してあげた。
山の外へ出ず、村へも行かず、誰も来なくなって寂しくてもじっとしていた。ずっと、おりこうにしていたのに。
「うぅ……」
ひとつ声が漏れると、もう止まらなかった。ぼろぼろと涙が落ちてくる。××さまは両手で顔を隠した。
人間の前で泣けば心配させるから、昔はなるべく我慢していたような気がする。けれど今は誰も見ていない。誰も××さまのことなど見てくれない。
頬から落ちた涙が土へ染みたころ、空からも一滴、二滴と水が落ちはじめた。やがて雨粒は数を増し、乾いていた地面をみるみる黒く染めていく。
「雨かよ」
人間のひとりが空を仰いだ。朝まで晴れていた空には、いつの間にか分厚い雲が垂れ込めている。××さまは気づかない。昔の人間なら知っていた。××さまが悲しめば雨が降り、寂しがれば風が山を巡り、泣けば川が荒れる。
本人にも制御できない奇跡の名残。それがまだ消えずに残っていることなど、××さま自身はとうに忘れていた。
ただ悲しかった。人間が好きなのに、人間はもう××さまを好きではないらしい。
薄々は分かっていた。誰も来なくなったころから、きっとそうなのだろうとは思っていた。それでも、本当にそうなのだと知らされるのは思っていたよりずっとつらい。
××さまは泣きながら立ち上がり、もう一度だけ後ろを振り返った。社はない。なら、ここにはいられないのだろう。人間が壊したのだから、きっと出ていけという意味なのだ。
柔らかくなった肉球へ木片が刺さった。何百年も社から出ず、土の上をろくに歩かなかったせいで、ずっとずっと頼りなくなっている。
痛かったけれど、そのまま一歩踏み出した。もう一歩。四本の獣脚でゆっくり山道を下り、人の胴体をぐらぐら揺らしながら進んでいく。
祭が盛んだったころ、人間たちの目に映る××さまはもっと人に近かった。二本の脚で立ち、笑い、手を伸ばせば人間の子供にも触れられたはずなのに、信仰を失うにつれて形は崩れ、本来の山犬へ戻ろうとしていた。
茶色い毛に覆われた大きな獣の胴と太い四肢、その首があるはずの場所から人間の上半身だけが生えている。獣の部分は安定しているのに、人の胴体ばかりが重く、少し斜面が傾くだけでぐにゃりと横へ倒れそうになった。
雨は次第に激しさを増していく。××さまが鼻をすすれば梢が大きく揺れ、嗚咽が漏れるたび風は山肌を駆け下りた。斜面を伝う雨水は細い沢へ集まり、泥を巻き込みながら勢いを増す。その先の川では水が茶色く濁り、表面に幾つもの渦が浮かびはじめていた。
それでも××さまは歩き続ける。どこへ行けばいいのかは分からない。ただ、人間に会いたかった。今日来た人間たちは、自分を知らなかっただけかもしれない。もっとたくさん人間がいるところへ行けば、誰かひとりくらい覚えているかもしれない。名前を呼んでくれるかもしれない。そう考えると、ほんの少しだけ足が前へ出た。
長い山道を抜けるころ、見たこともない黒い道が現れた。土でも石でもなく、ひどく平らでつるつるしている。その上を大きな箱が猛烈な速さで走り抜け、轟音に驚いた××さまは上半身を大きく反らして尻餅をついた。
赤いもの、白いもの、黒いもの。次々と通り過ぎていくそれらを目で追っているうち、中に人間がいることに気づく。
「にんげん」
思わず声が出た。たくさんいる。山へ来た者たちより、ずっと多い。××さまは濡れた頬を手の甲で拭い、道路の向こうを見つめた。
昔、田畑が続いていたはずの場所には知らない建物が幾つも立ち、空へ伸びる細い柱や蜘蛛の糸のような線、色の変わる光、昼間なのに輝いている大きな板が並んでいる。何もかも知らないものなのに、その間を行き交っているのは間違いなく人間だった。
少しだけ嬉しくなった。こんなにいるのなら、きっと誰かは自分を知っている。そう思って近づいたが、人間たちは××さまを見なかった。
傘を差した女がすぐそばを通り過ぎ、若い男は手の中の薄い板を眺めながら肩先をすり抜けていく。子供を連れた人間も足早に向こうへ消えた。
誰も振り向かない。誰も名前を呼ばない。昔は村へ姿を見せれば、すぐに子供たちが走ってきた。××さまだ、××さまが来た、と声を上げ、ちいさい手で××さまにしがみついてきたものだった。大人たちは慌てて止めたけれど、××さまはあれが嫌いではなかった。人間はあたたかく、気持ちがよかった。
思い出した途端、また涙が溢れた。風が強くなり、雨粒が道路を叩きつける。植え込みは激しく揺れ、××さまが通り過ぎたあとから葉が黒ずんで萎れはじめた。
花壇の花は次々に首を垂れ、軒下で雨宿りしていた野良猫が突然背中の毛を逆立てる。何もいないはずの空間を見上げ、怯えた声を漏らして奥へ逃げ込んだ。その先の猫も続き、電線に止まっていた鳥まで一斉に飛び去っていく。少し離れた川では水が茶色く濁り、幾つもの渦が護岸のそばを回っていた。
街の人間たちは急な荒天を嫌がり、傘を押さえて足を速める。××さまはただ人間がたくさんいる方へ向かい、茶色い獣の身体を濡らしながら、知らない道を進んでいく。こんなに人間がいるのだから、誰かひとりくらい、××さまを呼んでくれるかもしれない。
そう信じて、山から放り出されたかみさまは、泣きながら街へ降りていった。

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