ながくながくゆっくりと おまえの願いをかなえてあげる

 それから男は、毎日犬小屋を拝むようになった。誰かに言われたわけではない。朝起きてカーテンを開け、ぼんやり庭を見ると、なんとなく外へ出たくなる。
 サンダルを引っかけて犬小屋の前まで行き、しゃがんで手を合わせる。それだけだ。最初は、タローが好きだったものを供えるためだった。ささみのジャーキー。犬用のビスケット。少し高いやつを買ってやると、袋を開ける前から何故か分かって尻尾を振っていたことを思い出しながら、小さな皿へ二つ三つ乗せる。
 食べるものがいないのだから、当然いつまでも残っている。夕方になれば片づけ、翌朝にはまた新しいものを置く。腐るものはやめた。水だけは毎日替えた。生きている犬を飼っているみたいだな、と自分でも思う。それでもやめる気にはならなかった。
 
 犬小屋の中には、何かがいる。そんな気がする。覗き込んでも暗いだけで、手を入れたところで何にも触れない。近くへ寄るとたまに鼻先に犬の匂いがするような気がした。犬小屋で寝ていたタローが、家族が庭へ出るとすぐに飛び出してきたことを思い出せた。
 事件のあと、犬小屋も掃除されている。家族の誰かの血が掛かっていたからだ。雨にも何度か濡れた。それでも鼻を近づけると、日向で温まった犬の腹に顔を埋めたときのような、獣の匂いがほんのり残っている。だから、いるのかもしれない。魂だとか幽霊だとか、男はそれまで特別信じていたわけではなかった。それでも今は、そうだったらいいと思う。
 
 タローだけではない。父も、母も、弟も、妹たちも、この家のどこかにまだいてくれればいい。姿が見えなくてもいい。返事をしなくても構わない。
 全部終わって、どこか知らないところへ行ってしまったのではなく、まだここにいるのだと思えれば、それだけで朝起きる理由くらいにはなった。男は犬小屋へ手を合わせる。今日もいるか。そんなことを心の中で話しかける。返事はない。でも、不思議と落ち着いた。
 
 
 
 ××さまは毎朝げんきいっぱいに喜んでいた。
 巫はとても信心深い。朝になると必ず本殿までやってきて、食べ物と新しい水を供え、手まで合わせてくれる。昔の村人だって、毎日欠かさず来た者はそう多くない。
 
 しかも、ここへ来てから分かったことがある。本殿はこの小さな社らしいけれど、巫が暮らしている大きな建物も全部××さまのものらしい。そうでなければ、巫がずっとそこにいるはずがない。昔の社にも境内があった。鳥居があり、参道があり、祭のときには人間が集まる広場まであった。だからここも同じなのだろう。本殿が庭の小屋で、そこから塀の内側はみんな××さまの境内なのだ。
 
 ならば遠慮する理由はなかった。傷が少し癒えたころ、××さまは初めて本殿から出た。小屋の小さな入口から、まず黒い頭がぬるりと現れる。続いて人間の肩、両腕、茶色い獣の胸、太い前脚。それだけでもう入口の何倍もあるのに、木の壁は押し広げられもせず、巨大な身体だけがするすると外へ這い出してくる。
 四つの脚で庭へ降りると、前より身体が軽かった。まだ人の上半身はぐにゃぐにゃしているけれど、山を下りたときほど酷くはない。巫が毎日くれる信仰のおかげだろう。嬉しくなって、そのまま巫のいる家へついていった。
 
 壁も戸も××さまを止めなかった。家も社なのだから当然である。中はとても広かった。知らないものばかり置いてある。
 大きな四角い板から人間の声がしたり、箱の中が冷たかったり、天井からぶら下がるものが火も使わないまま夜なのに昼みたいに明るくなったりする。
 
 昔の人間はこんなものを持っていなかった。何百年も見ないうちに、人間はずいぶんすごくなったらしい。××さまは感心しながら巫の後ろをついて歩いた。台所へ行けば台所へ、居間へ行けば居間へ。巫が座れば、そのそばで四つ脚を折って伏せた。
 
 もちろん男には見えない。ただ、ひとりきりの居間でテレビを眺めていると、時折どこからか獣臭い匂いがする。そのたびに男は少しだけ息を止める。
 
「タローかな」
 
 口にしてから、自分で馬鹿らしいと思う。それでも、嫌な気分にはならなかった。むしろ少し笑えた。そういう日が、ぽつぽつ増えていった。
 
 家には仏壇もあった。もともと祖父母の位牌が置かれていたところへ、いまは新しいものが一気に増えている。男はそこにも毎日手を合わせる。
 朝、犬小屋を拝んで、家へ戻れば仏壇を拝む。最初のころは線香を上げることすら苦痛だった。並んだ写真を見るたび胸が詰まり、頭の中も心の奥も、みんなめちゃくちゃになる。何も考えられなくなる。それでも毎日やった。やらなければならない気がした。
 
 母には季節の花を置いた。父には酒。弟が好きだった菓子を見つければ買い、小学生の妹が欲しがりそうな文房具を見かければ、必要もないのに手に取った。三歳だった妹には、小さな髪飾りを買ったこともある。もう使う人間はいない。分かっている。
 それでも店先で見かけると、似合うだろうな、と思ってしまう。母ならこの色が好きだった。弟ならこれを食べた。妹ならきっと欲しがる。そうやって買ってきたものが、仏壇のまわりに少しずつ増えていく。
 
 
 ××さまは、それも全部自分への貢ぎ物だと思った。本殿だけでなく、家の中にも供え物を置く場所があるらしい。しかも巫はたいへん気前がよかった。
 昔も布や酒はたくさん貰ったが、いまの人間が作るものはどれも見たことがないほど綺麗だ。
 
 母へ買った薄い絹のストールは、××さまにとって上等な着物になった。人間の目には仏壇の横へ畳んだまま置かれている。それなのに××さまの身体には、同じものがふわりと掛かっていた。ずっと泥と雨に汚れていた肩を柔らかな布が覆う。
 
 妹へ買った小さな飾りは黒髪の横についた。父へ供えた酒は飲めば身体がぽかぽかした。弟へ買った菓子は甘かった。巫はとても優しい。毎日のように新しいものをくれる。
 
 信仰を食べるたび、長い黒髪から泥が落ちていった。絡まりきっていた毛先がほどけ、艶が戻る。頬の汚れも消え、山犬の茶色い毛並みまで少しずつふっくらとしてくる。折れかけていた爪も治り、社を壊されたときについた傷も塞がっていった。
 
 
 ××さまは日に日に身綺麗になった。素敵な布を身につけ、綺麗な飾りをつけ、おいしいものを食べる。昔に戻っていくみたいだった。だから、ちゃんと仕事をしなければいけないと思った。巫はこれほど尽くしてくれているのだ。神様が何もしないわけにはいかない。
 
 
 けれど、なかなかお願いをしてくれなかった。ここにいてほしい。いなくならないでほしい。最初にもらった願いはもう叶えている。××さまはずっとここにいるつもりだ。なら、次のお仕事がほしい。
 
 昔なら人間は毎日のように困り事を持ってきた。畑の作物が盗まれた、余所者が怖い、隣村の誰それが嫌だ。お願いはいくらでもあった。
 
 なのに巫は、毎日悲しんでいるくせに何も頼まない。××さまは少し心配になった。人間はひとりで我慢してはいけない。神様がいるのだから、お願いすればいいのに。
 
 
 そう思っていたある夜、ようやく聞こえた。
 
 
 男は仏壇の前へ座っていた。眠れない夜だった。事件から何日経っても、夜になると余計なことばかり考える。犯人たちは捕まっている。警察から説明も受けた。これから裁判になる。司法が裁く。何度もそう言われた。分かっている。分かっているけれど、だから何なのだと思う。
 
 
 父も母も戻らない。弟も妹たちも戻らない。タローだって帰ってこない。刑務所へ入れば、それで釣り合うのか。飯を食うのだろう。眠るのだろう。風呂にも入る。病気になれば治療も受ける。いつか笑うことだってあるのかもしれない。家族を殺した人間が、この先一度でも腹の底から笑う瞬間があるかもしれないと思うだけで、身体の中がぐちゃぐちゃになる。
 
 
 男は写真を見た。全員、笑っている。遺影に使われるなんて思ってもいなかったころの写真だ。どうしてこっちが死んでいる。並ぶ中に、自分だけいない。写真の中に自分はいるのに、仏壇では仲間はずれだ。
 
 どうしてあいつらが生きている。考えてはいけないと思った。けれど、一度思ってしまったものは消えてくれなかった。
 
 
「長く長く、苦しんで死にますように」
 
 
 声に出していた。言ったあとで、自分でも驚いた。最低だと思う。死人の前でする願いではない。母なら怒るかもしれない。父だって、そんなこと考えるなと言ったかもしれない。それでも取り消せなかった。むしろ、ずっと胸の奥へ押し込めていたものをようやく外へ出したような気がして、ほんの少し楽になった。
 
 
 
 ××さまは目を丸くした。お願いだ。ようやく巫がお願いをしてくれた。
 
 嬉しくなって、仏壇の前まで身体を寄せる。けれど内容は少し難しい。いなくしてください、なら分かる。来ないようにしてください、も分かる。殺してください、も昔たくさん聞いた。長く長く苦しんで死ぬ。こういうお願いは初めてだった。
 
 ××さまはしばらく考えた。いつものように首をちょいとはねれば、すぐ死んでしまう。それでは長くない。苦しむ時間も短い。なら、全部ちぎらなければいい。少しだけ。今日は少し。明日も少し。その次の日も、ほんの少し。ゆっくりやれば長くなる。
 
 なるほど。
 
 ××さまは嬉しそうに目を細めた。初めての仕事なので、間違えないようにしなくてはいけない。
 
 巫が誰を願っているのかは、すぐ分かった。祈りには行き先がある。名前を知らなくても構わない。巫の胸の中にある顔と、怒りと、あの日への思いを辿ればいい。
 
 遠い場所に三人いた。壁に囲まれた場所にいても関係はない。人間が作った壁など、神様の仕事を邪魔しない。
 
 
 ××さまは男の横で四つ脚を折り、目を閉じた。遠くにある三つの首へ手を伸ばす。身体の首ではない。その奥。人間の目には見えないところにあるものを、指先でつまむ。いつもならそのまま、ぷつんと取ってしまう。今日は違う。ほんの少しだけ引っ張った。ちぎれる寸前で止める。
 
 ひとつ。ふたつ。みっつ。
 
 できた。
 
 ××さまは満足した。明日も続きをしよう。長く長く、苦しめてあげる。巫がそうお願いしたのだから。願いを叶えれば、きっと喜ぶ。
 
 喜んだら、また祭をしてくれるかもしれない。どんな祭になるのだろう。いまの人間は太鼓を叩くだろうか。火のまわりを、昔みたいにくるくる踊るだろうか。楽しみだった。
 
 
 
 
 翌朝、男はいつも通り犬小屋へ水を持っていった。昨夜口にしたことを少し後悔していた。それでも、犬小屋の前へ来ると不思議と胸が軽くなる。
 皿を置き、手を合わせる。小屋の奥には何も見えない。けれど、やっぱり何かいる。そう思った。
 
 
 男が仕事をしていないぶん、時間だけはたくさんあった。することがなくなると、スマートフォンを見る。それがよくなかった。事件のことは見ないほうがいい。警察にも親族にも言われている。分かっているのに検索してしまう。自分の名字。住宅街の名前。一家五人。強盗殺人。検索すれば、いくらでも出てきた。
 
 ニュースだけならまだよかった。その下に、人間がいる。知らない人間が、自分の家族について喋っている。
 父の会社。家の値段。土地。資産。どうして長男だけ助かったのか。怪しい。共犯ではないのか。金持ちなら恨まれて当然。防犯意識が足りない。近所の住人はなぜ助けなかった。犬だけが立派だった。映画みたいだ。面白半分の言葉が、際限なく並んでいる。
 
 男は何度も画面を閉じた。それでもまた開いた。誰も父を知らない。母がどんな人だったか知らない。弟が何をしたかったのかも、妹が何を好きだったのかも知らない。三歳の妹の声すら聞いたことがない。タローの頭を一度だって撫でたことがない。何も知らない人間たちが、知ったような顔で全部を喋っている。
 
 腹が立った。悲しかった。気持ち悪かった。どうしてこんなことができるのだろうと思った。画面の向こうだから人間ではないとでも思っているのだろうか。自分が読むとは考えないのか。
 
 男はひとつの投稿を見た。長男について書かれていた。詳しいことなど何も知らないくせに、文字だけは長かった。
 
 家族が死んで一番得をしたのは誰か。
 
 そんな言葉があった。視界が滲んだ。男はスマートフォンを伏せた。
 
 
「いなくなればいいのに」
 
 
 それだけ呟いた。死ねとは言っていない。ただ、こんな人間がこの世からいなくなればいいと思っただけだ。
 
 ××さまには、それで十分だった。
 
 お願いだ。
 
 今度はずいぶん遠い。けれどちゃんと分かる。巫が見ていた小さな板の向こうから、細い糸のようなものが伸びている。言葉を書いた人間へ繋がっていた。
 便利なものだ。昔は相手がどこにいるのか分からないとき、村人にもっと詳しく聞かなくてはいけなかった。いまは巫がこれを見るだけで分かるらしい。人間はやっぱりすごくなった。
 
 ××さまはその糸を辿った。ひとり見つける。首をちょいとはねようとして、少し考えた。巫は、いなくなればいい、と言っただけだ。なら、いつもの仕事でよい。指をかける。けれど昨夜のお願いもまだ途中だった。長く長く苦しんで死ぬ。この人間も巫を悲しませた。同じようにしたほうが喜ぶだろうか。
 
 ××さまは迷った末、少しだけちぎることにした。すぐに全部取ってしまうより、丁寧である。巫は献身的な人間なのだから、××さまだって丁寧に願いを叶えてあげたい。
 
 その日から、仕事が増えた。男が記事を読む。腹を立てる。悲しくなる。もう見たくないと思う。こんなやつらいなくなってしまえばいい、と考える。××さまが聞く。ひとつずつ覚える。首を少しちぎる。次の日も少し。また次の日も少し。
 
 
 男は何も知らない。ただ、一人ぼっちの家で生きているだけだった。朝になれば犬小屋へ行き、水を替える。仏壇へ線香を上げる。家族が好きだったものを見かければ買ってくる。眠れない夜には恨み言を吐く。スマートフォンを見て傷つき、知らない誰かに腹を立てる。そして、また犬小屋を拝む。それだけだった。
 
 
 そのたびに××さまは育った。黒髪は日に日に艶やかになった。泥に汚れていた顔は白く整い、頬には血色まで戻る。山犬の毛並みも柔らかくなり、痩せて浮いていた骨が見えなくなっていく。
 巫が仏壇へ供えた布を身につけ、飾りを髪へ挿し、首元には綺麗な紐飾りまで増えた。かつて村中から信仰を集めていたころの姿へ、少しずつ近づいている。
 
 まだ人の下半身には戻らない。それでも人の胴体は前ほどぐにゃぐにゃしなくなった。巫を見るときくらいなら、ちゃんと背筋を伸ばしていられる。それが嬉しくて、男が家を歩くたび後ろをついて回った。男が眠れば寝室にも入った。社なのだから、どこへ入ってもいい。
 
 ベッドのそばへ大きな獣の身体を伏せ、人間の上半身を持ち上げて巫の寝顔を見る。ひどく疲れた顔をしている。早く元気になってほしい。そのためにも仕事を頑張ろう。嫌なものは全部いなくしてあげる。悲しくするものも、腹を立てさせるものも、ひとつ残らず。そうすれば昔の人間たちみたいに、いつか巫も笑ってくれるはずだ。
 
 ××さまはそう信じていた。
 
 
 
 遠く離れた留置施設では、そのころ、一人の男が首を押さえて呻いていた。検査をしても原因は分からない。外傷はない。骨にも異常はない。それなのに、喉の奥を誰かに掴まれているような痛みが一日ごとに酷くなっていく。
 別の場所では、夜中に何度も息苦しさで目を覚ます者がいた。さらに別の町では、匿名のアカウントを使っていた人間が、数日前から首の違和感を訴えていた。
 
 もちろん、それらを結びつける者はいない。
 
 男も知らない。犬小屋の奥にいるものが、毎晩こつこつと仕事をしていることなど知るはずがない。
 
 
 ××さまは今日も満足していた。巫は毎日拝んでくれる。食べ物もくれる。綺麗なものもくれる。お願いまでしてくれる。ここへ来てから、とても忙しい。忙しいけれど、神様というものはそういうものだった。人間の願いを叶えるのが仕事だ。人間が喜べば、××さまも嬉しい。
 ずっと仕事をしていなかった、誰も××さまにお願いをしてはくれなかった。やりがい、というものを久々に感じられて、毎日が充実している。
 
 全部終わったら、きっと祭だ。人間たちが笑って、くるくる踊る。そう考えるだけで嬉しくなって、××さまは新しい社の中で尾を揺らした。
 
 お祭りしようね。
 
 長く長く苦しめて、ちゃんとみんな殺してあげるからね。おまえはとってもよいにんげん、だいすきだよ。ずうっといっしょにいようね。
 
 

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