近所で最初に死んだのは、事件の夜に犬の鳴き声を聞いていたという家の老人だった。
男が知ったのは翌朝で、ゴミを出そうと玄関を開けると少し先の家に救急車が停まっていた。何人かが道路へ出ていたものの、事情を尋ねる気にはなれず、そのまま家へ戻る。昼すぎ、自治会の連絡を開いてようやく分かった。夜中に体調を崩して救急搬送され、そのまま亡くなったらしい。前日まで普通に買い物へ出ていたというから、本当に急なことだったのだろう。
名前には覚えがある。事件のあと、警察から聞かされた近隣住民の証言に出てきた人だった。
深夜に犬の鳴き声を聞いた。何か大きな音もしたような気がする。それでも、まさか人が殺されているとは思わなかった。朝になればいつも通りだろうと、そのまま眠った。
仕方がないことくらい分かっている。近所で犬が吠えたからといって、真夜中に外へ飛び出す人のほうが珍しい。押し入ったのは複数の男で、仮に様子を見に来ていたところで老人ひとりに何ができたかも分からない。
それでも頭の中へ、見てもいないあの夜が勝手に浮かぶ。
父は、母は叫んだだろうか。弟は助けを呼んだだろうか。妹たちは泣いただろう。タローが人の指を食いちぎるほど暴れたなら、静かな夜だったはずがない。誰かが電話をしてくれていたら。あと十分、いや五分でも早く警察が来ていたら。誰かひとりでも、おかしいと思ってくれていたなら。考えたところで何も変わらないのに、そういう考えだけは何度でも戻ってきた。
「……なんで来てくれなかったんだよ」
声に出してから、男は目を伏せた。亡くなった人へ向ける言葉ではない。自分でも嫌になる。それでも、一度胸に生まれたものまではどうにもできなかった。
すぐそばには××さまが伏せている。大きな茶色い前脚の間へ顎を置いていたものの、巫の声を聞くと黒髪の奥から顔を上げた。
なんで来てくれなかった。その人間のことを考えると、巫の中に悲しいものが湧く。胸が痛くなる。もうその人間はいないらしい。なら、少しは楽になるだろう。よかった。
××さまは目を細め、安心してまた顎を伏せた。老人の死と自分の願いが繋がっているなど、男が考えるはずもない。後味だけが悪く、その日はいつもより長く仏壇の前へ座っていた。
それから数日して、少し離れた家でも人が死んだ。その家の住人とは挨拶を交わす程度で、男もほとんど知らない。
ただ事件のあと、「あの家、会社関係で相当揉めてたんじゃないの」と近所で話していたらしいことを親戚から聞いた覚えがある。金持ちなのだから恨まれる事情くらいあったのだろう。あれだけ盗られるものがある家なら目をつけられて当然だ。そんな話までしていたという。聞いた日は腹が立った。翌日には忘れようとした。それでも思い出せば、また頭の奥が熱くなる。その人もいなくなった。
次は、事件当日の物音について警察へ「気づかなかった」と答えた別の住人。その少しあとには、家の前を通るたび足を止めて覗き込んでいた人間まで急に倒れた。もともと年齢の高い住民が多い地域で、救急車が来ること自体は珍しくない。病気もあれば事故もある。誰かが亡くなるたび、以前の事件と結びつけようとする者はいなかった。
男も数えていない。××さまだけが、ひとつひとつ覚えている。
巫を悲しくさせた人間。巫が顔を見ると嫌な気持ちになる人間。どうして助けてくれなかったのだろう、と一度でも考えた相手。お願いの仕方は昔と随分変わったけれど、意味は似たようなものだと受け取っていた。
昔の人間も、いつもはっきり「殺して」と言ったわけではない。畑へ来る余所者が嫌だ。娘を泣かせた男が憎い。あの連中さえ来なければいいのに。
人間が困っていれば、その意味を汲み取って助けてあげた。願いが叶えば、みんな笑った。だから、今もそうする。
巫はずいぶんお願いの多い人間だった。本人にはそんなつもりもなく、買い物へ出た先で自宅を指差してひそひそ話す人間を見れば、放っておいてくれと思う。ニュース記事のコメント欄へ家族への憶測が書かれていれば腹が立つ。知らないアカウントが、長男だけ生き残ったのは怪しい、財産が全部入るなら得をしたのではないか、と並べているのを見た日には吐き気までした。
こんなやつ、いなくなればいいのに。そう考えたあとでスマートフォンを伏せ、しばらくすれば夕飯のことを考える。その程度の憎悪だった。
けれど××さまには十分届く。巫が嫌がっている。それなら片づける。昔からそういう仕事をしてきた。
ひとり、またひとり。首をちょいとはねる。犯人たちについては、巫が「長く長く、苦しんで死にますように」と頼んだので、毎日ほんの少しずつ進めている。
ほかの者はお願いの大きさに合わせればよい。強く憎んだ日は深く、ちらりと消えてほしいと思ったくらいなら、ごく小さく。そこから先で何が起きるかにはあまり興味がない。眠ったまま起きなくても、道端で倒れても、病院で原因不明と言われても、最後にいなくなればお願いは叶う。
××さまには、人間の命がどれほど重くなったのか分からない。昔、村の外から来た者の首をはねれば、人間たちは喜んだ。酒を持ってきた。魚を焼いた。太鼓を叩き、火の周りをくるくる回った。子供まで楽しそうに跳ねていた。誰ひとり、それはいけないことだと教えてくれなかった。
人間が嬉しそうなので、よいことなのだと思っている。それ以外のやり方を教わる機会もないまま、長い長い時間だけが過ぎた。
ある日の午後、男は庭へ出て犬小屋の前へしゃがんだ。最近、このあたりへ来ると以前より気持ちが落ち着く。
小屋の奥を覗いても暗がりがあるだけなのに、何かがこちらを見返しているような気さえした。怖さはない。むしろ懐かしい。
「いるか」
もちろん返事はなかった。男は入口へ向かって手を伸ばし、生きていたころのタローの頭を思い出しながら空中を撫でる。この高さだった。耳の後ろはこのあたり。少し強めに掻いてやると、でかい頭をぐいぐい押しつけてきた。
その手の下へ、××さまが慌てて頭を滑り込ませた。ちょっと位置がずれたので首を傾け、巫の手が往復するところへきちんと後頭部を合わせる。手のひらは身体を素通りしていく。それでも撫でられている気分は十分にする。
「よしよし」
んふふ。もう一度、手が動く。××さまもそれに合わせて少し頭を上げた。次は低くする。ちょうど耳のあたりを指先が通る。とても上手くいった。
男はタローがいるような気がしていて、××さまは巫が自分を撫でてくれていると思っている。どちらも満足しているので、困る者はいなかった。
そんなふうに日が過ぎるうち、××さまはずいぶん立派になった。黒髪から泥はすっかり消え、毛先まで柔らかく艶がある。人の顔には血色が戻り、山犬の身体にも厚みが出た。胸元には、男が家族へ供えた飾りが増えている。きらきらしていてとても良いものだ。甘い菓子も美味い酒も、毎日たくさんだ。なんて敬虔な人間なんだろう。
どれもありがたく頂戴した。巫は本当に優しい。よいものをいっぱいくれる。だから××さまも、もっと頑張らなくてはいけない。人間と仲良く過ごすためには、もらってばかりではいけないからだ。
そのころ、インターネットでは妙な噂が生まれていた。白楡ヶ丘の事件について何度も投稿していた匿名アカウントが、ある日を境に動かなくなったことから始まる。
長男が怪しい、家族仲にも裏がある、資産目当ての共犯ではないか。そんな投稿を繰り返していた人間らしい。しばらくして、本人が急死したという話が別の場所から流れてきた。偶然だろう、と最初は誰も気に留めない。
そのあと、事件現場の写真を面白半分に加工していたアカウントも更新を止めた。被害者一家の土地や会社について長々と推測していた者まで亡くなったという話が出るころには、過去の投稿を保存して並べる人間が現れる。■■県の一家殺害について変なこと書いた人、妙に死んでない? そんな投稿が少しだけ伸び、すぐに、こじつけだ、陰謀論だ、アルミホイルでも巻いてろ、と笑われた。それで終わるはずが、またひとり死ぬ。次も出た。暇を持て余した誰かが一覧を作り、別の誰かが過去ログを掘り、死亡したらしいアカウントへ印をつけていった。
法則らしい法則は最後まで見つからなかった。何度も酷いことを書いているのに元気な人間もいる。たった一度の投稿のあとに倒れた者もいる。同じ文章を拡散した二人のうち、一方だけが死ぬことさえあった。
××さまが聞いているのは巫の声なので、男が読んでいないものは知らない。目にしても何とも思わなければお願いとして聞こえてこない。短い一言でも胸へ深く刺されば、そちらはよく届く。
そんな事情を知る者はいないから、噂には好き勝手なものが足されていった。被害者一家の名前を書き込むと死ぬ。事件の記事を午前二時に三度開くと獣の鳴き声が聞こえる。例の家を馬鹿にすると数日後に首がおかしくなる。死んだ番犬がネットを巡回している。
最後の話を××さまが聞いたなら、きっと嬉しかっただろう。やがて元の事件を知らない者まで噂だけ知るようになり、古い怪談や都市伝説と一緒に名前が並ぶようになる。鮫島事件。牛の首。■■県の強盗殺人。
男はその流れを知らない。ある時期から、自分の家族について検索すること自体をやめていた。見れば傷つく。知らない人間の言葉に腹を立て、そのあと何時間も気分が沈む。それなら最初から見なければいい。ようやくそう思えるようになった。
××さまには少し残念だった。せっかくのお願いが減ってしまったからである。
そのかわり、近所に変化があった。人の亡くなった家が売りに出され、古い住人が子供の家へ移り、長く空いていた家にも新しい人間が入るようになった。
最初に越してきたのは幼い子供が二人いる家族。次は赤ん坊を連れた夫婦。その隣には、小学生の兄妹がいる一家がやって来た。
高齢者の多かった住宅街に小さな靴や自転車が増え、夕方になると道路の向こうから子供の笑い声が聞こえる。男には少し複雑な光景だった。妹たちと同じくらいの子を見ると胸が痛む。それでも、誰もいない家が並ぶよりはずっとよかった。
洗濯物が風に揺れ、玄関先に三輪車が転がり、母親が道路へ飛び出すなと子供を叱っている。以前なら気にも留めなかった生活の音が、今はありがたい。
××さまは、新しく来た人間たちを初めて見た日、長いこと首を傾げていた。知っているような気がする。その人間そのものを覚えているわけではない。顔も声も服も違うのに、最初の家の母親が子供を呼ぶ声を聞いたとき、なにかひっかかるものがあった。嫌な棘じゃない。なにか、すてきなものだったはずだ。
庭先で笑うと片方の目だけ少し細くなる。昔、祭のたびに酒を二瓶抱えてきた女も、笑うと同じところが細くなった。
次に越してきた家の父親は、挨拶をするときに深く頭を下げる。それを見ると、毎朝社の前を掃いていた男の姿がぼんやり浮かぶ。
小学生の兄妹はさらに懐かしかった。兄が妹を追いかけ、庭の落ち葉を蹴り上げながらぐるぐる回る。妹は甲高く笑い、逃げながらも兄が遅れるとわざわざ立ち止まって待っている。××さまは思わず身体を起こした。ずっと昔にも、ああして回る子供がいた。名前はもう出てこない。顔も霞んでいる。それでも火の明かりのそばで、落ち葉を蹴り上げながら何度も何度もくるくる回り、大人にぶつかって怒られていたことだけは覚えている。
懐かしい。××さまは嬉しくなった。新しい人間たちは姿を見つけてくれず、名前も呼ばない。それでも仕草を見ていると、昔の祭のざわめきがすぐ近くまで戻ってくるようだった。
また来てくれた。そんな気がする。家はひとつ、またひとつと埋まっていく。
鼻筋の形。声を出して笑う前に一度息を吸う癖。子供を叱るとき、名前より先に「こら」と口にするところ。髪を結ぶ手つき。
祭の日、供え物を持ってきた誰かと重なるものが、ほんの少しずつある。何百年も経っているから同じ人間のはずはない。それくらいは××さまにも分かっている。それでも嬉しいので、細かいことはどうでもよかった。
新しく来た人間たちは巫にも優しい。会えば気さくに挨拶をして、事件のことを知っていても根掘り葉掘り聞こうとはしなかった。中には、悲しかったね、なにかあったら言ってな、助けるからな、と言葉を尽くしながら一緒になって泣いてくれた男もいる。その日は家へ帰ってから、巫もひとりで泣いた。悲しいからではなく、うれしいの時の涙だった。
野菜を多く貰ったからと持ってきた家もあれば、子供が男の家の前を通るたび「こんにちは」と声をかけるようになった家もある。男は最初ぎこちなく返し、そのうち少し笑うようになった。××さまもそれを見るたび嬉しくなる。
住宅街は以前より賑やかになっていった。子供の声があちこちでする。庭に花を植える家が増え、休日には外で何かを焼いて食べている匂いまで流れてくる。
××さまは、ときどき家々の間を歩き回るようになった。昔の村を見回っていたころに少し似ている。誰にも見えない大きな山犬の身体で道を進み、知っているような知らないような人間たちを眺めていく。
小さな子供が横を駆け抜けると、つられて尾が揺れた。ある赤ん坊だけは、すれ違いざまに母親の肩越しからじっと××さまを見つめた。目が合う。赤ん坊は口を開き、まだ言葉にもならない声を出した。「ばぁ、ばっ」母親は意味も分からず「なあに?」と笑う。××さまも笑った。んふふ。昔も、小さい人間はよく××さまを見つけた。
町は少しずつ明るくなっていく。男も以前より庭へ出る時間が増えた。ある夕方、犬小屋の前へしゃがむと、近くの家から子供たちの笑い声が聞こえてくる。
「最近、賑やかだな」
誰へ言った言葉なのか、自分でも分からない。そのまま小屋へ向かって手を伸ばすと、××さまはすぐに頭を滑り込ませた。
「タロー」
巫の手が動く。××さまは気持ちよさそうに目を細める。昔の人間に少し似た人たちが、また周りにいる。子供もたくさんいる。巫もたまに笑う。とてもよい場所になってきた。尾を振りながら撫でてもらい、その夜もひとつ、遠くから届いていた古いお願いを思い出した。
何年も使われていた匿名アカウントには、三週間前の投稿がひとつ残っていた。
家族全員死んで自分だけ生き残って遺産総取りとか、正直ちょっと羨ましい。
男が読んだのは数秒だけ。そのとき心の中で、消えろよ、と考えたことも本人はもう忘れている。××さまは覚えていた。巫のお願いを忘れる神様は、きっとよくない神様なのだろう。だから今日もひとつ、きちんと叶える。明日もまた頑張ればいい。
家々の間を風が通り抜け、新しく越してきた子供たちが落ち葉を蹴り上げる。
意味もなく笑いながら、風に舞う葉と一緒になってくるくる回っていた。××さまは、その姿をいつまでもいつまでも、飽きることなく眺めていた。

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