「はい、お口をあけてください」と言うと、冬美はぱかりと素直に口をあける。そこへ丁寧にほぐした焼き魚を一口分運ぶと、拒否も躊躇もなく、もぐもぐとよく噛み、時間をかけて飲み込む。飲み込んだあとはただ次を待つようにじっとしている。
押し入れから連れ出した弟妹たちは、二日間俺が離れた隙に一気に心の調子を崩し、そのまま入院して俺と同室になった。本来なら部屋のキャパシティ的に四人は完全にアウトなのだが、そこは特別措置という名のゴリ押しで、簡易ベッドを持ち込んで無理やり四人部屋になっている。ぎゅうぎゅう詰めの避難所みたいなもんだ。
分かりやすい症状として、三人とも自分から食事を取らなくなった。空腹がないわけじゃない。ただ、食べるという行為を自分で始められない。それなら、と順番を決めて一口ずつ食べさせる方式にした。冬美、夏雄、焦凍。名前を呼んで、口をあけてもらって、入れて、噛むのを待って、飲み込むのを確認して、次へ。みんな驚くほどよく噛むから、とにかく時間がかかる。だが正直なところ、めちゃくちゃ可愛い。
焦凍はまだまだこういう時間を取り戻せる可能性がある。でも冬美と夏雄は、あっという間に大人になって、こうして口を開けて待ってくれることも、甘えることも、きっとなくなってしまうだろう。今だ。今しかない。先生止めないでください! これはチャンスなんです!! 俺、こいつらの結婚式の時に言いたいんだ、これだけ可愛くってこれだけ大事にしてたんだから、絶対幸せにしてくれって……!!
俺は「弟妹の世話は極力しないように」と釘を刺されているのだが、これは世話じゃないので、趣味なので、と主張したら、再度強めに止められた。だが「リラックス効果あるんですよ!」と駄々を捏ねたところ、最終的には渋々許可が出た。俺に対する何らかの療法ですよこれは。絶対良い効果がある。マイナスイオンとか出てるし、肌の調子とか良くなってる気がする。
俺がこんな状態なので、どうやら急に全部引き剥がすと離脱症状の方が危ないらしい。兄妹同室は弟妹の処方であると同時に、俺への処方にもなっている。
弟妹の世話からの離脱症状ってなんだ。麻薬か? と思いながら、俺はまた次の一口を用意する。
「よく食べて偉いわね」穏やかな声に振り返ると、母さんが夏雄の頭を撫でていた。以前なら照れて身を捩って逃げていたはずのその接触を、今の夏雄は素直に受け入れて、少し誇らしげに笑っている。子供たちがまとめて入院、という判断は、母さんにとっては逆に回復のきっかけになったらしい。環境的に最も悪影響を及ぼしていた存在から物理的に切り離されて、母性が一気に表に出てきた感じだ。いわゆる母覚醒、というやつだろう。
「お母さんだけ違う部屋って嫌ね、私もこっちに来ようかしら」なんて冗談めかして言っていたが、さすがにそれはもう許可されない。いっそ五人まとめて大部屋に移した方が理にかなっている気さえしてくる。
最初に食事を終えた焦凍が「歯磨きできた」と母さんに抱きついていき、偉い偉いと褒められている。母さんは焦凍の火傷跡をそっと撫でては、そのたびに小さく謝るのだけど、焦凍は謝られる回数と同じだけ「いいよ」と笑って許している。
「悪いのは親父だから、母さん謝んなくていいよ」と、前よりずっと流暢に喋りながら、今度は母さんに抱きついたり、俺の膝に登ってきたりと落ち着きがない。全身から「嬉しくてたまらない」がそのまま漏れ出している感じだ。自販機でジュースを買いに行く途中も、「母さんも、陽火にいもいるから、病院好き。みんなで引っ越せて嬉しい」とニコニコしている。……引っ越し、では、無いんですよ……。
冬美は家にいた頃と同じ表情を取り戻し、夏雄の吃音も「たまに詰まるかな」程度まで落ち着いた。母さんは食欲不振で入れていた点滴が外れ、お粥も卒業して普通のご飯を食べながら、「母さんね、あと30キロくらい太ろうと思うの」と妙にキリッとした顔で宣言する。
「それはそれとして体に悪そうだから、身長から平均体重を算出した方がいいよ」「でも重い方が父さんに勝てそうじゃない?」「勝ちを狙わないでくださ~~い」──母さんにこんな、少しとぼけた一面があるなんて、病院に来て初めて知った。
夜は右に冬美、左に夏雄、腹の上には丸まった焦凍が乗って、寝返りも打てないほどぎゅうぎゅうなのに、なぜかよく眠れる。睡眠薬のおかげかと思って試しに薬を止めた日も、焦凍に起こされるまで目が覚めなかった。「陽火にい、寝坊だ」と、くふくふ笑って抱きついてくる。可愛いなあ。
父さんも一度だけ会いに来た。実際は何度か足を運んでいるらしいが、子供たちに会うには制限がかかっているようだ。言見先生が父さんの背後でポコポコと『見てるぞ』の吹き出しを浮かべながら待機している中、「必要なものはないか」と俺に聞き、夏雄たちには台本をなぞるみたいに不器用に「……助けを呼べて、よかった」と言った。その先の言葉は続かず、視線だけが宙を泳ぐ。怒ろうとしたが、急に父さんが一回り小さく見えて、何も言えなかった。一回り小さくなっても、この人のデカさが異常なのは変わらないけどな。
俺たちの家は、どうやら児童相談所と医療機関のあいだで、きちんと連携が取られているらしい。
─────らしい、というのは、俺がその詳細を知らされていないからだ。
説明されないことに不満がないわけじゃないが、理由は分かっている。俺は保護される側の「児童」で、判断や交渉をする立場ではない。聞こうと思えば聞けたのかもしれないが、あえて踏み込まなかった。知ったところで、どうにもできない話を抱え込む余裕は、今の俺にはない。病人です病人。学校も休んで弟妹とゴロゴロするのが俺の仕事です。
俺たちが変わらない代わりに、変わったことがある。
父さんと母さんが、以前よりよく話すようになった。
父さんは相変わらず、家族への報連相が壊滅的だ。肝心な情報ほど伏せられ、必要最低限だけが簡潔に、事務連絡のように伝えられる。仕事の癖が抜けないのか、それとも意図的なのか、そのあたりは分からない。ただ、以前と違うのは、その「必要最低限」の中に、父さん自身のことが含まれるようになったことだ。
どうやら、父さんも受診しているらしい。
それを聞いたとき、思ったよりも素直に納得している自分がいた。
やっぱり病気だったんだな、あの人。
そんな感想が、ひどく平坦な調子で浮かんできて、自分でも少し驚いた。
正直に言えば、人間らしい姿なんて、今さら見せないで欲しいと思う。
急に弱ったり、反省した顔をしたり、治療だなんだと「理解される側」に回られるのは、あまり気持ちのいい話じゃない。けれど、不思議なことに、以前みたいな激しい怒りは湧いてこなかった。
血を吐いて倒れたあの時みたいな、どうしようもなく煮え立つ感情は、もう戻ってこない。
代わりにあるのは、妙に乾いた実感だ。人間だったんだよなあ、あの人。
生まれつきヒーローでも意味の分からない怪物でもなく、ちゃんと壊れて、ちゃんと診察される、そういう意味での「人間」。
それを受け入れたからといって、許したわけじゃない。理解したからといって、あの人がやったことが最悪というのは変わらない。
ただ、怒り続けるほどの熱量が、もう残っていないだけだ。
多分それは、俺が少し回復してきた証拠で、同時に、父さんという「人間」を見えるようになった証拠だろう。わけのわからない強大な存在ではなく、やらかし中年男性として見れるようになった。そういう距離感を、今は悪くないと思っている。
そんな気分で冬美と夏雄を巻き込みながらベッドでごろごろしていたら、小さくドアが開いた。吹き出しが、ドアの隙間からにゅっとはみ出してくる。ああ、言見先生か─────そう思った瞬間、その吹き出しが喋った。
「こどもがいる! ねえねえきみ、ボクとあそぼ! 探検ごっこしよ!」
座ってテレビを見ていた焦凍に向かって、吹き出しがトタトタと足音まで立てて近づいていく。
えっっ! 言見先生の個性って、自由意志を持つんですか!? と一瞬バグりかけたが、違う違う。本当に、普通に、子供だ。たぶん異形型個性で、顔が吹き出しになっているだけ。吹き出しの下には小さい身体が付いていて、止まっている時も元気にぴょこぴょこと跳ねている。 世界、広……!
焦凍が「お前だってこどもだろ」と不思議そうに返すと、吹き出し少年はぱっと明るくなって、「こどもなかま!」と言いながら顔(?)いっぱいに『イエーイ』と文字を浮かべ、ピースまでしてみせた。どうやらものすごく陽気な子らしい。
「年が近そうな子がいて良かったな」と焦凍に声をかけると、「良い事?」と小さく首を傾げられた。病院の性質上、子供自体が少ないからなあ。
おいでおいでと手招きしてお茶を飲ませ、「みんな病院でお泊まりしてるから、探検はやめような。じいちゃんばあちゃんの方が多いから、びっくりしちゃうもんな」と言い聞かせる。この階は“心身症寄り”で患者の年齢が少しバラけている。できるだけ“叱る”かたちにならないように伝えたつもりだが、吹き出しの中身がみるみる『しょんぼり』に変わり、本人も「だって、つまんない……」と肩を落として俯いた。さてどう慰めたものか、と考えたところでノックが鳴る。
入ってきたのは言見先生だった。「失礼します、ここに子供が……漫我、ダメだろ」と言うや否や、流れるような動作で吹き出し少年を小脇に抱え上げる。背後では『おこるぞ』の吹き出しがポコポコ浮かんでは消えていた。抱えられた『漫我くん』は、活きのいいエビみたいにじたばた暴れながら、「やだぁ! あそぶ! おじさんのバカ!」と泣きわめいている。か、かわいそう……。
「ともだちとあそぶんだあ!」とピイピイ泣く漫我くんに、言見先生は完全に困った顔だし、焦凍は焦凍で「俺とあいつ、友達?」とこちらに確認を取ってくる。向こうがそう言ったなら、友達だよ。これくらいの年齢の友達判定なんて、それくらい雑で、ちょうどいい。
焦凍は泣いている漫我くんを見て、落とさないように姿勢を直しながら翻弄されている言見先生のところへ近づき、「俺も遊びたい。談話室で遊んじゃだめ? お絵かきとか、そういうの」と、遠慮がちに聞いた。その声は小さいけれど、はっきりしていて、さっきまでの「確認」より一歩踏み込んだお願いだった。
……そういえば、焦凍が“友達”と遊ぶところを見るのは、これが初めてかもしれない。
幼稚園だって、父さんの仕事の空き時間に合わせて休まされていた。鍛錬だと言われては連れ出され、結果的にひどい目に遭うことの方が多かった。誰かと遊ぶとか、放課後に寄り道するとか、そういう当たり前の時間は、焦凍の生活には最初から組み込まれていなかったのだ。
だから今、こうして自分から「遊びたい」と言葉にしていること自体が、少しだけ奇跡みたいに見えてしまう。
言見先生が焦凍の話を聞こうとした、その一瞬の隙をついて、漫我くんは器用に先生の腕から抜け出し、焦凍のほうへ駆け寄った。
「ボク、絵じょうずだよ! お絵かき帳あるよ! あのね、好きなの描いてあげる!」
「好きなの……」
「猫とかね、犬もかける! あとね、オールマイトもかける!」
「……オールマイト、かいて」
「いいよ! いこうねっ、いってきまあーす!」
そう言うが早いか、二人は手を繋いで病室を飛び出していった。背後から言見先生の「走らない」という忠告が聞こえた気がするが、届いたかどうかは怪しい。たぶん、届いていない。日中は安全確認できるスタッフが多い時間帯なので、まあ大丈夫だろう。こういうところがおおらかなのが、この病院の良いところだ。
廊下へ向けていた視線を病室に戻すと、言見先生が軽く息を整え、「申し訳ありません、甥です。事情がありまして、どうしても連れて来ざるを得ずに……」と丁寧に頭を下げた。いえいえいえ、なんの問題もないです。焦凍も楽しそうだし、あんなに明るい声を聞けただけで、こっちまで元気を分けてもらった気がする。
冬美も夏雄も「元気な子だったね」「チビにも遊べる場所があるといいよな」と、さっきより明るい表情をしている。
どうやら漫我くんは、言見先生の甥っ子らしい。姉の里帰り出産に合わせてこちらへ来たものの、母親である姉は少し健康に不安のある状態だったらしく、大事を取って早めに入院することになったという。さらに世話をしていた祖母がぎっくり腰でダウン。結果的に、近距離別居している言見先生しか預け先がなくなった─────そういう巡り合わせらしい。
「基本的にはとても良い子なんですが、どうにも元気すぎて……ご迷惑をおかけしまして」と、言見先生はもう一度、申し訳なさそうに頭を下げた。
いえいえ。焦凍に友達ができた。それだけで、今日はもう十分だ。本当に、良いことだと思う。
