午後三時を少し回った頃、向かいの席で社内資料を読んでいた蜂屋が、ふっと顔を上げた。
「誰か来ますよ。まだちょっと遠いっすけど、こっち来てますね。急いではないと思います」
「分かるの?」
「足音するんで。たぶん一人っすね」
「へえ」
楯岡にはまだ何も聞こえなかったので、それだけ返して手元の書類へ視線を戻した。蜂屋はこういうところが妙に鋭い。入社してまだ日が浅いので、どこまでが本人固有の感覚なのかまでは楯岡も把握していないが、少なくとも人が近づいてくることについては自分よりずっと早く気づくらしい。
第三業務室へ来る人間なら、まあ社員だろう。今日は特に来客予定も聞いていないし、急ぎの呼び出しなら先に内線が入る。
それから三十秒ほどして、ようやく廊下の向こうから靴音が近づいてきた。
「コンニチハ☆ 月9ドラマ『カナリアタイム』主演俳優、あなたの夜空に光る星! 綺羅々星 聖也です! 皆さんお元気ですか!」
扉が開くなり、きらきらした男が入ってきた。本当にきらきらして見えるので困る。
二十代前半くらい、明るい茶色の髪は照明の下でつやつやしていて、額を少し出した髪型まで爽やかだった。肌はきれいで、鼻筋はすっと通り、笑えば形のいい目が柔らかく細くなる。口元から覗く歯まで白い。
身長はそこそこあるが威圧感はなく、むしろ扉が開いた瞬間に部屋が一段明るくなったような華やかさが先に来る。今日は白いシャツに淡い色のジャケットという比較的大人しい格好をしているのに、それでも街を歩けば何度か振り返られそうだった。実際、そういう仕事をしている顔である。
「うわあああ!」
伊坂が負けた。
何に負けたのかは分からない。突然両手で顔を庇ったかと思うと、座っていた椅子ごと後ろへ傾き、慌てて立て直そうとして余計にバランスを崩し、そのまま床へ転がった。
誰も触っていない。入ってきた男も一瞬そちらを見たが、笑顔を崩さなかった。すごい。楯岡なら、自分が部屋へ入っただけで成人男性が悲鳴を上げて床へ落ちたら自分の背後の確認くらいはする。後ろから殺人ピエロでも来てるのかな、と。
「ああ、わざわざ書類持ってきてくれたの。ファックスでよかったのに」
「もちろんです! せっかく近くまで来たので、直接お渡しした方が早いかなって! こちら、先ほどお願いされていた確認書類です。記入済みですので、あとはそちらでお願いしますね!」
「ありがとう。助かるよ」
「いえいえ! それでは────」
そこで、男の笑顔が消えた。
消えたというより、切れた。口角がすっと定位置へ戻り、ぱちぱちしていた目元まで一瞬で静かになる。背筋もほんの少し丸まり、それまで胸の前で爽やかに重ねられていた両手がだらりと下がった。
「ふひひ。ファックスで済むなど百も承知でござるよお。拙者、本日たまたま空き時間発生につき、サボる口実を携えて楯パイに会いに来たカァイイ後輩ちゃんですぞ。さあさあ、存分に愛でても宜しくてよ」
蜂屋が黙った。楯岡は慣れているので、差し出された書類を受け取った。表紙には綺羅々星 聖也と印字されている。そこへ書かれた署名まで妙に達筆だった。
「仕事中だから愛ではしないけど、まあ座ってけば。そこの空いてる椅子使いなよ」
「やったぜ。楯パイのお許しが出ましたぞ。いやあ、さすが我が心の実家。久々の第三業務室、落ち着きますなあ」
「実家にするなよ。お前の部署、今はこっちじゃないだろ」
「心の実家ゆえ。実際の所属とは関係ござらぬ~~~~」
勝手に椅子を引っ張ってきて楯岡の机の横へ座る。
さっきまでの明朗快活な若手俳優はもうどこにもいなかった。脚を揃えて座っていた姿勢すら崩れ、背もたれへ半分沈みながら鞄を膝へ抱えている。
メイクと髪型と服装は変わった訳ではないので、顔だけ見れば相変わらず眩しいくらい整っているのに、中身だけが急激に休日のオタクになった。
「……キャラが濃い……」
隣の席から蜂屋が小声で呟く。ちゃんと聞こえたので、楯岡は書類を確認しながら答えた。
「俳優さんだからね」
「そこ関係あります?」
「多少はあるんじゃないかな。あれ、蜂屋くん知らなかったっけ。うち、顔が目立つ職員用に芸能プロダクションとかプロレス団体とか作ってるんだよ」
蜂屋は知らなかったらしい。目を丸くして、楯岡と来客を交互に見る。その横では伊坂がまだ床に倒れていたが、とりあえず死んではいないので放っておいた。
スモールアップルには、本業と直接関係なさそうな関連団体がいくつかある。その一つがプロレス団体のアップルファイトで、もう一つが芸能事務所のアップルスター芸能プロダクションだった。
どちらも表向きには普通に営業していて、所属選手は試合をするし、所属俳優は映画やドラマに出る。会社としても普通に仕事を取っているし、所属者個人にファンもいる。ただ、本来の目的は別で、仕事柄どうしても目立つ社員に、目立っていても不自然ではない肩書きを与えるためのものでもあった。
顔を隠してサングラスをしていても、芸能人なら身バレを避けているだけに見える。人相が悪すぎてどうしても覚えられる社員なら、いっそ悪役俳優として顔を売ってしまえば、「怖い顔をした知らない男」ではなく「あのドラマに出ていた人」になる。
アップルファイトが身体の目立つ社員向けなら、アップルスターは顔の目立つ社員向け、と考えればだいたい合っている。
「彼は芸プロの方。綺羅々星 聖也は芸名で、本名は氷影黒太。俺が新人の頃にちょっと教育担当してた」
「もっと愛情込めて言ってくだされ。楯パイが手塩にかけて育てたカァイイ後輩、氷影黒太くんでござるよ。ちなみに本日は雑誌取材一本終えて自由の身。次まで時間が空いたので、楯パイに甘やかしてもらお~~と思って来ましたぞ」
「甘やかすとは言ってないよ」
「そこを何とか。頭を撫でるなど無料サービスからでも」
嫌だよ、髪固めてるじゃん、と返すと、氷影は「それはそう」と素直に諦め、代わりに楯岡の机に置いてあった個包装の飴をひとつ貰っていいかと聞いた。
そういうところは昔から変わらない。楯岡が新人教育を担当した頃から、他人へ懐くまでには妙に時間がかかるくせに、一度懐いた相手へはかなり遠慮がなくなる人間だった。
今日は芸能の仕事が一区切りついて時間が空いたので、久しぶりに甘えさせてくれる先輩の顔でも見に行こう、くらいの気持ちで来たのだろう。別に楯岡は甘えさせているつもりはないのだが、氷影の中ではそういうことになっている。
殺し屋としての氷影は、今の姿からは想像しづらいくらい隠密向きだった。
昔から人の意識の外へ抜けるのが妙にうまく、相手がほんの少し注意を逸らした隙を使うタイプである。
ただし、生まれ持った顔だけがどうしようもなく隠密向きではなかった。
明るい。爽やか。華がある。
顔面だけを切り取れば、物陰より太陽の下の方が似合う。本人はかなりの人見知りで、親しい相手以外へ今みたいな喋り方をすることもない。知らない人間から話しかけられれば、曖昧に笑って当たり障りのない返事をして、なるべく早く会話を終わらせる。
デビュー当初、事務所はその顔立ちと、身内の前で見せる妙に高いテンションを拾って、明るく爽やかで人懐こい若手俳優として売り出した。さっきの「あなたの夜空に光る星!」から始まる挨拶も、その頃に作られたものだ。今では少々古いキャラ付けになっているが、本人も別に嫌がってはいないので、番宣などで求められれば普通にやる。
楯岡からすると、事務所の見立てはそこまで外れていない。
氷影は慣れた相手の前ならよく喋る。好きなものが絡めばなおさらで、漫画だの衣装だの忍者だのに話が及べば勝手に声量が上がるし、放っておけば一人でどこまでも喋っている。楯岡へ「楯パイ」と絡んでくる今の姿の方が、普段テレビで見せている静かな顔より、本人としてはずっと自然だった。
問題は、そこまで懐くのにやたら時間がかかることである。
何度か仕事をした程度ではまず足りない。付き合いが長くても、本人の中でいつまでも「仕事で知り合った人」のままという相手もいる。まして芸能の現場で会う共演者やスタッフ相手なら、氷影自身が最初から積極的に距離を縮める気を持っていなかった。
本職はあくまで殺し屋だ。
綺羅々星 聖也という俳優は、顔が目立ちすぎる氷影黒太に会社が与えた表向きの肩書きでしかない。だからといって芸能仕事を適当にやるわけではなく、台詞は覚えるし、愛想も振りまく。カメラが回れば声を張り、求められれば笑い、番宣なら例の挨拶だって全力でやる。ただ、仕事相手と必要以上に親しくなるところまでは仕事に含まれていない、と本人はたぶん思っている。
そのせいで、世間からの印象は少し妙な方向へ固まった。
事務所としては陽気な若手俳優として売り出したかったはずなのに、長めのインタビューでは聞かれたことに静かに答え、トーク番組でも自分から前へ出ることはあまりない。共演者が騒いでいれば横で笑っているし、振られればきちんと返すが、それ以上は出しゃばらない。
結果、ファンからは「事務所は陽キャで売りたいらしいけど、本人はかなり物静か」という認識をされている。
楯岡からすれば、だいぶ違う。
物静かな男が無理をして明るく振る舞っているのではなく、慣れるまでが異様に長いだけの騒がしいオタクである。世間が見ているのは、まだ他人行儀な氷影だ。
もっとも、その誤解をわざわざ解く必要もない。本人も困っていないし、むしろ普段が静かなせいで、例のハイテンションな挨拶は今ではちょっとした持ちネタになっている。番宣でたまに披露すると、ファンは初期設定がまだ生きていたと喜ぶらしい。
趣味は読書。主に漫画。衣装にも興味がある。主にコスプレ。休日はイベントへ顔を出すこともある。主にコミケ。
その辺りは最初から隠していない。好きな作品について聞かれれば普段より少し口数が増えるので、ファンからも「静かなオタク」というところまでは正しく認識されている。
ただ、その先までは知られていない。
慣れた相手の前では語尾にござるを付け、本物の忍者を見れば目を輝かせ、楯岡を見つければ甘やかせと寄ってくる。
今のところ、そこまで知っているのは身内だけだった。
「設定では、コミケでコスプレしてるところスカウトされたことになってるんだよ」
「半分くらい事実ですぞ。コミケには行っておりましたゆえ」
「スカウトはされてないだろ」
「弊社よりはスカウトされましたぞ」
「殺し屋としてな」
蜂屋がまた黙った。その顔に、芸能界ってすごいっすね、と会社ってすごいっすね、のどちらが浮かんでいるのか楯岡にはよく分からなかった。
氷影は飴を口へ放り込みながら、ようやく蜂屋をまじまじと見た。最初から当然存在には気づいていただろうが、知らない人間へ自分から踏み込むのが苦手なので、楯岡が紹介するまで待っていたらしい。
「ところで楯パイ。そちらの御仁はもしや最近噂の新人殿では? 第三へ忍者が入ったとの話、拙者の耳にも届いておりますぞ」
「ああ、蜂屋くん。前の会社から移ってきた。蜂屋くん、こいつはさっき言った通り氷影。仕事の時は別にこんな喋り方しないから安心して」
「どうも、蜂屋弥一郎っす。忍者なのはまあ、はい。よろしくお願いします」
「本物のニンジャ! 実在ニンジャ! 家系ニンジャマシマシ! いや待って、拙者いまテンション上がっておりますゆえ気持ち悪かったら遠慮なく言ってくだされ。コミュ障オタクが興奮すると距離感を見失うという典型症例が発生しておりますぞ」
「いや、全然いいっすけど。芸能人にそんなテンションで言われんの初めてっすね」
氷影の目が露骨に輝いた。芸能人としてカメラへ向けているものとは種類の違う、純粋に趣味へ刺さった時の光だった。
忍者。氷影は昔から忍者が好きだった。
本当に忍者の家系というわけではない。単純に漫画と時代劇とゲームの忍者が好きで、自分も仕事の時には忍装束を着ている。殺し屋が職業上の必要性だけではなく趣味込みで忍者の格好をしているのだから、普通に考えればかなり変な人なのだが、スモールアップルでそこを気にする者はあまりいない。
そこで楯岡は、ひとつ思い出した。
「そうだ。お前の仕事着って忍者服だったよな」
「そうでござるよ。ニンニン」
「お前、同じの新品で何着か持ってなかったっけ。この前まとめて発注してたやつ。次の発注前で悪いんだけど、何着か蜂屋くんに回していい? 蜂屋くんの仕事着も会社で新しく揃えようと思ってたんだよ」
「本物のニンジャへ拙者の忍装束を!? そんな栄誉があっていいのでござるか!? ありがてえ~~……拝んじゃお」
「えっ、いやいやいや。俺、前の会社から持ってきたやつあるんで大丈夫っすよ! まだ全然使えますし、わざわざ新しいの貰うの悪いっすよ」
突然話の中心にされた蜂屋が慌てて両手を振る。その横で、これまで床に転がったまま話を聞いていた伊坂が、ようやく机へ手を掛けて身体を起こした。
「いや、変えた方がいいよ。俺も最初見た時から思ってた。なんであんなピチピチしてるの着てんの」
「伊坂さん復活したんすか」
「最初から俺は負けてない。顔が良すぎてびっくりしただけ」
「人の顔見て椅子から落ちる方がびっくりしますけど」
そこについては蜂屋が正しい。
楯岡はスマートフォンを取り出した。ちょうど仕事用装備を新しく会社で揃える話になった際、蜂屋が今まで使っていたものを確認するために撮った写真が残っている。
本人だけ写っているものなので、横から覗き込もうとする伊坂を軽く押し退けながら画面を開き、氷影へ向けた。
「これなんだけど」
「どれどれ。いやあ、本物ニンジャ殿の実用装備となれば拙者も非常に興────FANZAで見た!」
でかい声だった。氷影が椅子から半分浮き上がった。
画面に映っている蜂屋は、全身ほとんど真っ黒だった。そこまではいい。問題は素材と形状である。
つやのあるラバー状の生地が首元から足首までぴったり身体へ張りつき、細身ながら鍛えられた身体の線を、隠すどころか非常に丁寧に拾っている。
胸、腹、腰、尻、脚。どこをどう見ても布に余裕というものが存在しない。こうなると、創作関係に詳しいオタクなら連想するものがある。年齢制限のかかった漫画である。
「エロ売りニンジャ!?」
「指差さない」
蜂屋へ向かって勢いよく伸びた氷影の人差し指を、楯岡は上からぺしりと叩き落とした。
「痛っ。楯パイ横暴! しかしこれは拙者の見識ではどう見てもエロ売りの……」
「伊坂みたいなことを言わない」
「俺は無罪なのに巻き込まれた! 俺はなんて不幸なんだ! 俺だってあんま言わない方がいいかなって黙ってたのに!」
伊坂がものすごい勢いで被害者になる。そのまま「俺なりに新人へ気遣ってたのに」「言ったらセクハラになるかと思って我慢してたのに」とぶつぶつ言い始める。楯岡は無視した。
「……そんな変っすか、これ」
「変というか、ちょっと公序良俗に反するかなって……」
「えっ!?」
「うち、コスプレ出社の日があるくらいだから格好そのものは割と何でもありなんだけどさ。それでもこれはちょっと、ご近所さんの目にどうかなって……。蜂屋くん、これ着てそのまま外歩いてた?」
「いや、さすがに上に普通の服着て現場近くまで行ってましたけど。そんな……えっ、そんななんスか!? 前の会社で特に何も言われてなかったんで、俺、全然客観視してなかったっす」
蜂屋が楯岡の手元へ顔を寄せ、自分の写真をまじまじと見る。自分自身の姿なのに、初めて見るものみたいな顔をしていた。
楯岡も最初に見た時は、仕事着なのだから何か機能的な理由でもあるのだろうと思っていた。本人も特に気にしていなかったし、わざわざ口にするのもどうかと思って黙っていた。しかし、忍者衣装とコスプレに関してはこの場で一番詳しい氷影が、見た瞬間にFANZAと叫んだ。成人向けコンテンツを扱う大手サイトの名前だ。やはり客観的にもそういうやつだったらしい。
「蜂屋氏。大変申し上げにくいのでござるが、拙者それに酷似した衣装を成人向け同人作品とコスプレROM以外ではほぼ見たことがござらぬ。特に腰周辺が非常によろしくない。装備担当者、絶対分かってやっていたのでは?」
「腰!?」
「ここがですね────」
「細かく解説しなくていいよ」
また画面を指そうとしたので止めた。蜂屋の顔からだんだん血の気が引いていく。
「俺、入社した時はサイバーパンク忍者っぽくてかっこいいなって思ったんすよ。前の会社でも誰も何も言わなかったし、新しく支給されるやつもずっとこの系統で……」
「ああ……」
楯岡はなんとなく察した。本人が気づいていない。若い。身体の線もきれいに出る。それで本人は「サイバーパンクでかっこいい」と喜んで着ている。
前の会社の装備担当なり上司なりが、どういう気持ちで同系統を支給し続けていたのか、もう確認しなくてもだいたい分かる気がする。
「無自覚なのいいことにドスケベニンジャ売りされてたんじゃない?」
「やっぱそう思います!?」
「いやあ、これ人権侵害だよなあ。誰か責任取れる立場の人、生き残ってない?」
「拙者、祭りに参加いたしましたが主に全員首チョンパでござった。敵将討ち取ったり討ち取らなかったり」
「そっかあ。ごめんなあ~~」
楯岡は本気で気の毒になって、蜂屋の肩をぽんぽん叩いた。強襲合併の弊害である。前会社を潰して社員だけ吸収すると、こういう時に事情を聞こうにも確認できる相手がもういない。
機能上必要だったのか。それともただの趣味だったのか。蜂屋が嫌がらないのをいいことに面白がっていたのか。たぶん後ろ二つだろう。
「搾取されてた……」
蜂屋が静かに呟いた。
「まあでも、今気づけてよかったよ。これからは着なきゃいいんだから。会社で新しいの用意するし」
「拙者の忍装束、喜んで提供いたしますぞ。新品未開封が何着かありますゆえ、サイズが大きく違わなければ一旦そちらを試着して、合わなければ改めて発注いたそう。古典的忍装束、よいですぞ。何より忍者らしい!」
「俺も今はそっちの方がいいっす。最近こっち来てから昔ながらの忍者服の方が普通にかっこいいし、楽そうだなって。いや……俺、今までこれで仕事してたんだ……」
「気にすんなって。蜂屋は悪くないだろ。支給されたもの着てただけなんだから」
今日の伊坂は珍しく長時間真っ当な思考が続いている。楯岡も頷いた。何も知らなかった本人へ責任を押しつける話ではない。むしろ前の会社で誰も一言教えてやらなかった方が問題だろう。
「そうそう。蜂屋くんは何も悪くないよ。スモアプでは普通の忍者服にしような。全然忍者の家系でもないのに趣味で忍者を自称してる変なやつのおかげで、すぐ仕事着発注できるから……」
「言い方! 楯パイ、拙者も隠密を得手とするれっきとした忍者系殺し屋ですぞ! 出生が忍びの家系ではないだけで、魂は忍びにござる!」
「本物がそこにいるから今日だけはちょっと黙ろうか」
「御意」
氷影は大人しくなった。蜂屋はまだショックから立ち直れていないらしく、楯岡のスマートフォンに映っている自分を険しい顔で眺めている。
伊坂まで横から同情するような目を向けていた。出会った初日に殺し合った二人が、今では仕事着の露出について同じ側に立っている。人間関係とは分からないものだ。
「……これ、そんなにエロかったんすね」
「うん」
「俺もエロいと思ってた」
「R18忍者陵辱モノの第一話扉絵」
「氷影」
「申し訳ござらん」
蜂屋が両手で顔を覆った。さすがに可哀想になってきた。
「もう写真閉じるから。忘れよう。今後着なきゃいいだけだって」
「俺これで何件仕事したと思ってるんすか……」
「数えない方がいいよ」
「何人に見られたんだろ……」
「同僚以外の目撃者ってだいたいターゲットだろ。死んでるから平気平気」
そこで蜂屋が顔を上げた。
「あっ。そっか。俺、これ着てる時ほとんど誰にも見られてないっす」
「良かったな」
「よかった~~……」
心の底から安堵している。殺し屋だからこそ成立する救いだった。
仕事着が成人向け漫画の忍者みたいだったとしても、それを着ているところをほとんど誰にも見られていないなら、少なくとも社会的な被害はない。
仕事内容が人殺しであることを除けば。氷影も胸の前で両手を合わせ、「日頃の隠密技術に救われましたな」とありがたそうに頷いていた。お前は忍者の何なんだ、と楯岡は思ったが、口にはしなかった。
その後、氷影が手持ちの未使用装束を何着か回せると申し出たので、サイズが合えば蜂屋へ渡し、合わなければ同じ型を新しく発注することになった。
蜂屋としても、一度着て動いてみた上で細かな希望を出したいらしい。そこまで話がまとまると、氷影は今日ここへ来た目的を完全に忘れたように蜂屋の横へ椅子を寄せた。
「して、本物の忍者氏。装束の好みについてお伺いしても? 頭巾は使用されますかな。手甲、脚絆あたりは現代素材を混ぜても見た目を損なわぬ仕様がありましてな。拙者としては伝統と現代性の折衷こそ至高と考えており────」
「俺、そういうのあんま詳しくないっすよ。仕事で使いやすければ何でも」
「これが本物の余裕……! ファッションニンジャである拙者とは立っている次元が違う……!」
「自覚あるんじゃん」
「魂は本物!」
楯岡は放っておいて仕事へ戻った。横では伊坂もいつの間にか自分の椅子へ座り直し、しばらく蜂屋の写真について何か言いたそうにしていたが、楯岡と目が合うと黙った。成長である。
数分後には第三業務室へまた紙をめくる音とキーボードの音が戻り、その中で氷影だけが小声で忍装束について熱弁し、蜂屋が「へえ」「それ便利そうっすね」と適当に相槌を打っている。
本物の忍者の家系に生まれた男が、忍者に憧れて趣味で忍者をやっている男から忍者服を譲ってもらう。変な話だが、少なくともピチピチのラバースーツよりはいい。楯岡はそう思って、届いた書類を一枚めくった。
「ところで楯パイ。拙者、サボる口実で来たことを忘れられている気配がしますぞ。そろそろ先輩成分を補給したく」
「もう十分サボっただろ。書類出したなら帰りな」
「無慈悲! これが芸能界へ売られた後輩への仕打ちでござるか! 拙者はあの頃、右も左も分からぬいたいけな新人で────」
「お前、芸能部門行くって決まった時めちゃくちゃ喜んでたじゃん。色んな衣装着れるって」
「それはそれ、これはこれ!」
氷影が机へ突っ伏した。顔だけなら今をときめく爽やか若手俳優である。雑誌では「共演者まで明るくする太陽のような笑顔」と書かれていた。太陽はいま楯岡の机の端へ頬をつけ、「楯パイ冷たいでござるぅ」と呻いている。
「俺、芸能人ってもっと遠い存在だと思ってました」
蜂屋がしばらくその様子を眺めたあと、ぼそりと言った。
「俺も普通はそうだと思うよ」
楯岡は答えて、また書類へ目を落とした。少なくとも、会って十五分で人の仕事着を見てFANZAと叫ぶのが芸能人の標準だとは思わなくていい。こいつが特殊例というだけなので……と考えたところで、そういえば芸プロの社員の中では、氷影はこれでもだいぶ穏健な方だったな、と思い出した。
とはいえ、今わざわざ教えることでもないだろう。そのうち他の社員とも顔を合わせる機会はあるだろうし、その時になれば嫌でも分かる。楯岡は緊急ではない問題なら、基本的にいくらでも後回しにするタイプだった。問題になったら、その時に解決すればいい。だいたいのことは、それでどうにかなる。そういうものだ。

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