逃走許可

 結城誠人は、自分が人から恨まれるようなことをしたとは思っていなかった。
 少なくとも、殺されるほどのことはしていない。女から金を取ったことはある。結婚するつもりがあるようなことも言った。実家の事業が危ないだの、海外へ転勤する前に身辺を整理したいだの、それらしい理由をつけて何人かから金を借りたし、指輪を見せた女も一人や二人ではない。

 だが、騙されたと騒ぐ女たちは最初から勝手に期待しただけだ。結婚届へ署名したわけでもなければ、式場を予約したわけでもない。金だって無理やり奪ったわけではなかった。
 困っていると言えば、向こうから貸すと言った。それを受け取った。それだけだ。

 高瀬奈津美も、その一人だった。少し依存心が強い女だった。三十を過ぎて結婚を焦っていて、誠人が仕事で忙しいと言えば健気に待ち、体調が悪いと言えば食事を作り、金に困ったと言えば最初は五十万、それから百、二百万と出した。最後の方は親から相続した金にまで手をつけていたらしいが、そんなものは誠人の知ったことではない。別れたあとで自殺したと聞いた。それも誠人の知ったことではない。勝手に死んだ。それだけだ。

 だから、地下駐車場で突然知らない男から名前を呼ばれた時も、最初は奈津美とは結びつかなかった。

「結城誠人さんですよね」

 自分のバイクへ向かっていた誠人は足を止めた。声をかけてきたのは、少し離れた柱のそばに立っている男だった。二十代後半くらいだろうか。黒っぽいジャケットにパンツという、ごく普通の格好をしている。顔立ちにもこれといった特徴はなく、愛想も悪くない。清潔感がある、という言葉で説明がつく姿だ。
 そのさらに後ろに、もう一人いた。こちらは痩せていて、顎には髭があり、少し猫背で、シャツの袖を肘まで捲っている。どこか疲れた会社員のようにも見えた。

「……どちらさんですか」

「高瀬奈津美さんのご親族から依頼を受けた者です」

 最初の男が言った。その瞬間、誠人の身体が勝手に動いた。考えたわけではなかった。握っていたキーを差し込み、バイクへ跨がり、セルを回す。普段なら一発でかかるエンジンが、キュルキュルと空回りした。

「は?」

 もう一度。かからない。三度目でようやく低い音が響いた。その数秒がやけに長く感じられて、誠人は振り返った。二人とも動いていなかった。追ってくるどころか、最初の男は少し困ったような顔でこちらを見ている。痩せた男に至ってはポケットへ手まで突っ込んでいた。
 普通なら、この隙に距離を詰めるはずだ。逃げられるかもしれないのだから。なのに二人とも、まるで誠人がバイクで逃げ出すところまで予定に入っているみたいに慌てない。そのことが妙に気持ち悪かった。

 誠人はアクセルを開いた。地下駐車場の出口へ向かい、地上へ飛び出す。そのまま車道へ合流し、後ろも見ずに走った。百メートル、二百メートル。前の信号は青だ。間に合う。速度を上げたところで、交差点へ入る直前に黄色へ変わった。

「クソッ」

 行けなくはない。普段なら行く。ところが右折待ちをしていたワンボックスがちょうど鼻先をこちらの車線へ出し、その先の横断歩道には自転車を押した女が入り込んだ。
 左へ逃げようにも歩道との境にはガードパイプが続いている。直進すればワンボックス、右へ振れば対向車、左へ抜ければ自転車へ引っかかって自分まで転ぶ。人を撥ねるのが嫌だからではない。ここで転倒したら、後ろにいる二人に追いつかれる。それが嫌で、誠人は急ブレーキをかけた。

 タイヤが嫌な音を立て、目の前で信号が赤になる。舌打ちしてミラーを見る。誰もいない。当たり前だ。向こうは徒歩だった。こっちはバイクだ。地下駐車場を出てからもうかなり離れている。
 奈津美の親族が寄越した人間だとして、それが何だ。探偵か、取り立て屋か。金なんてとっくにパチ屋か馬に還元された。仮に危ない連中だったところで、ここまで逃げればどうとでもなる。そう考えたところで、ミラーの端に人影が入った。

 誠人は二度見した。痩せた男だった。
 道路脇の歩道を、こちらへ向かって走っている。全力疾走には見えなかった。腕を大きく振るでもなく、前傾姿勢になるでもなく、ただ普通に走っている。駅へ急いでいる会社員くらいの走り方だった。それなのに、速い。何より気味が悪いのは、バイクを追いかけている人間の姿に見えないことだった。必死さがない。顔を歪めてもいない。ただ一定の歩幅で走っているだけなのに、一度ミラーから目を離すたび、確実に大きくなっている。

「なんだよ、あれ」

 赤信号が長い。誠人は何度も信号を見た。まだ赤だ。ミラーへ戻す。もう五十メートルもない。また信号を見る。変わらない。ミラーを見る。四十、三十。男の顔が判別できる距離まで近づいたところで、ようやく青になった。

「っしゃ」

 アクセルを開く。バイクが飛び出した。男は追ってきた。慌てて速度を上げた様子すらない。誠人が動き出したから、自分もまた走り始めた。それだけに見えた。
 しばらく走ったところで、もう一台のバイクが横道から出てくる。黒いヘルメットを被っているので一瞬分からなかったが、地下駐車場にいたもう一人だった。

「……は?」

 追跡されている。

 その事実を理解した瞬間、背中に冷たいものが走った。誠人は速度を上げた。法定速度なんて知ったことではない。車の間を抜け、二車線の道路を縫う。後ろからクラクションを鳴らされたが無視した。
 六十、七十、一度だけ八十近くまで出す。バイクの男はついてくる。それは分かる。向こうもバイクだ。分からないのは、そのさらに後ろだった。

 走っている。さっきの男が、まだ走っている。もちろん八十キロで並走しているわけではない。こちらが速度を上げれば離れる。交差点を一つ越えれば小さくなり、二つ越えれば姿が消えることもある。それでも完全には振り切れない。
 一度、二百メートル以上離した。次の交差点で工事車両が片側一車線を潰していて、誘導員の赤い棒に止められた。十数秒。ミラーを見る。来る。

 工事区間を抜けて、また離す。今度こそと思ったところで、倉庫から配送トラックがバックで出てきた。大きな車体が道路を斜めに塞ぎ、前にも後ろにも切り返せないまま数秒待たされる。ミラーを見る。来る。次はタクシーだった。客を見つけたのか前を走っていた車が急に左へ寄り、右へ避けようとしたところへ対向の右折車が出てくる。止まる。また来る。

 その次は横断歩道だった。駅前から流れてきたらしい会社員の集団が、信号が変わると同時にぞろぞろと渡り始めた。酔っているのか横に広がって歩く男が何人かいて、その後ろから自転車を押した若い女と、スマートフォンを見ながら歩くスーツ姿の男が続く。対向車線には客を降ろそうとしているタクシーが斜めに停まり、歩道側には金属製の車止めが等間隔で並んでいた。強引に人の隙間へ突っ込もうにも、自転車のハンドルか誰かの鞄へ引っかかれば、それだけでバランスを崩す。転んだ瞬間に終わる。

「早くしろよ……」

 誠人は横断歩道の前で足をついた。ミラーを見る。来る。痩せた男が、たっ、たっ、たっ、たっ、と一定の足音を立てながら近づいてくる。最後尾の会社員がようやく歩道へ上がった瞬間にアクセルを開き、また距離を離した。

 次の交差点では、居酒屋の前から出てきた店員が酒瓶のケースを何段も積んだ台車を押して横断していた。キャスターが小さな段差へ引っかかったらしく、台車が横断歩道の真ん中で一度止まる。反対側からは自転車に乗った男が二人続き、右には中央分離帯のポール、左にはガードレールがある。台車の横を無理やり抜ければ、積まれたケースか自転車のどちらかに確実に接触する。誠人は舌打ちしながら減速した。ミラーの中で、また男が大きくなる。

 その次は右折中の大型トラックだった。長い車体が交差点を塞ぎ、その脇を駅から出てきたらしい数人の男女が横断している。空いているように見える隙間はあったが、トラックの後輪がそこへ巻き込むように寄ってくる。突っ込めば潰される。止まるしかない。また足音が近づいてくる。

 さらに先では、コンビニへ入ろうとした配送トラックが車道を半分塞ぎ、その横で空車のタクシーが客を拾うために急に停まった。誠人の前を走っていた軽自動車がそれを避けようと斜めに止まり、対向車まで詰まる。前にも横にも進めない。ほんの十秒にも満たない足止めだった。止まる。来る。

 追いつかれない。だが、振り切れない。もう少しで完全に見えなくなるというところまで離れると、必ず何かが起こる。信号が変わる。車が出てくる。人が渡る。工事がある。どれも普通にあることだった。一つ一つなら。だが、こんなに続くか。

「ふざけんなよ……なんなんだよ……!」

 誠人は歯を食いしばり、次の交差点で左折した。大通りを外れて住宅街へ入る。細い道ならバイク一台は抜けられても、あの速度で人間が走れるはずがない。そう思って路地へ入った途端、前方から宅配便のトラックが来た。

「はあ!?」

 道幅いっぱいだった。左は民家のコンクリート塀、右には電柱とガードパイプ。横を抜ける余地はない。誠人は急ブレーキをかけ、そのまま方向転換した。後ろを見る。二人が来る。バイクの男。その横を走る、痩せた男。

 誠人は反対側へ逃げた。嫌だった。何が嫌なのか、自分でもうまく説明できなかった。追われているのだから怖い。それは当然だ。けれど、それだけではない。あの二人は焦っていない。こちらを必死で捕まえようとしていない。バイクの男は普通に運転していた。前へ車が入れば車間を空けるし、横断歩道が塞がれば止まる。誠人が無茶な追い越しをしても、同じようには追ってこない。それなのに、誠人の前で何かが起こるたび、いつの間にかまた近くにいる。

 痩せた男は、もっと分からなかった。何分走っている。何キロ走った。なのにフォームが変わらない。頭の位置がほとんど上下しない。肩が揺れない。足だけが一定の間隔で地面を蹴り、顔にも力が入っていない。信号で誠人が止まれば近づいてくる。十メートル。五メートル。手を伸ばせば届くところまで来ても、捕まえない。男はそこで止まる。信号が青になる。誠人が反射的に逃げる。男は一拍置いて、また走り出す。

 追いつけないんじゃない。追いついていない。

 その考えが浮かんでから、恐怖の種類が変わった。

 線路が見えた。踏切が鳴り始める。

「待て待て待て待て」

 アクセルを開いたが間に合わない。遮断機が下りる。左は線路沿いの金網、右は踏切待ちの車列。遮断機の下を潜って抜けようにも、もう電車が近すぎた。誠人は停止した。電車が来る。長い。しかも一本目が通過しきらないうちに、反対側からもう一本入ってくる。

「嘘だろ……」

 後ろからエンジン音が近づいてきた。誠人は振り向かなかった。足音もする。たっ、たっ、たっ、たっ。一定だった。それが数メートル後ろで止まる。心臓が喉から出そうだった。何もされない。その方が怖かった。いつでも手を伸ばせるところまで来ているはずなのに、何もしてこない。

「なあ、今回の依頼って」

 走っていた男だった。息が切れていない。それが一番おかしかった。

「うん」

「できるだけ苦しめてほしい、だよな」

「そうだね」

「俺向きじゃないだろ!」

 突然そこだけ声が大きくなった。誠人の肩が跳ねる。

「俺そういうの得意じゃないって知ってるだろ。殺すなら殺すでさっさとやった方がいいだろ。時間かかるし面倒だし、残業になったらどうすんだよ」

「仕方ないよ。お前が俺の予約だけ先に埋めたせいで、仕事内容をほぼ選べなくなってるから」

「だって博文と組めない方が嫌なんだから仕方ないだろ」

「じゃあ依頼内容に文句を言う資格はないな」

「そんな理不尽あるか?」

「自分でやったんだよ」

「運が悪い! 俺はなんて不幸なんだ!」

 何の話をしているのか、途中から分からなかった。いや、分かっている。分かりたくないだけだった。今回の依頼。できるだけ苦しめてほしい。殺す。誰を。考える必要もない。誠人は前を見た。まだ電車が通っている。一両、二両、三両。長い。長すぎる。背後では、自分を殺しに来たらしい二人が普通に仕事の愚痴を言っている。

「でもまあ、こういう感じでいいのか? 今のところ良い感じに追い詰められてくれてる気がする」

「知らないよ。俺、こういう依頼初めてじゃないけど、普段はこういうのが得意な人と組むし。針生さんとか」

「性悪が得意な仕事って、俺に向いてないんだよな」

「悪口言わない」

「はい」

 声の調子が軽い。天気の話でもしているみたいだった。誠人は吐きそうになった。ようやく最後の車両が通過し、遮断機が上がり始める。完全に上がる前に発進した。二人は止めなかった。

 また逃げられた。

 そう思った直後、自分で浮かべた言葉に寒気がした。逃げられた。つまり、今のもあいつらが逃がしたから逃げられたのか。考えたくなくて、誠人は大通りへ出るなりスマートフォンへ手を伸ばした。警察。そうだ、警察へ電話すればいい。追われている。殺される。少なくとも命を狙われている。ホルダーからスマートフォンを外した瞬間、前を走っていた車が急にブレーキを踏んだ。

「うわっ」

 慌ててハンドルを切る。スマートフォンが手から滑り、道路へ落ちた。後ろから来た車のタイヤが踏み、乾いた音がする。

「嘘だろ……」

 思わずミラーを見る。バイクの男は何もしていなかった。こちらへ触れてもいない。何かを投げたわけでもない。ただ少し後ろを走っているだけだった。それなのに壊れた。

 嘘であってほしかった。全部。今まで自分は運がいい方だった。少なくとも悪くはなかった。女に嘘がばれそうになれば別の女へ移り、金がなくなれば誰かが助け、警察沙汰になりかけても決定的な証拠が足りなかった。何人かが集まって訴えると言い出したこともあったが、結局まとまらなかった。その細い綱の上を、ずっと落ちずに歩いてきた。

 今日だけだった。今日だけ、何もかもがおかしい。逃げようとする方向に車がいる。曲がろうとした道が工事中だ。青信号へ近づけば黄色になる。横断歩道へ来れば、人と自転車と大型車が同時に逃げ道を塞ぐ。警察へ連絡しようとすればスマートフォンが落ちる。そして妙なことに、致命的なことだけは起きない。転ばない。事故らない。誰かを撥ねるところまではいかない。必ずぎりぎりで止まれる。そのあとには、必ずもう一度だけ逃げられる。

 運が悪いんじゃない。悪すぎない。逃げ切れない程度にだけ、ずっと悪い。

 誠人はミラーを見た。バイクがいる。そのさらに向こうに、走っている男がいる。

「……なんなんだよ、お前ら……」

 もちろん聞こえる距離ではない。それでもバイクの男が、ちょうどその時こちらへ顔を向けた。偶然だ。そう思うしかなかった。

 誠人はアクセルを捻った。国道へ出る。もう何度目かも分からない逃走だったが、今度こそ本気で振り切る。七十、八十。前が空いた。九十。風がヘルメットを殴り、街灯が線になって後ろへ流れていく。数秒そのまま走り続けてからミラーを見る。黒いバイクは遠くにいる。痩せた男はいない。

「は、はは」

 笑いが出た。これだ。これが当たり前なんだ。どれだけ脚が速かろうが、人間はバイクより遅い。九十キロで走るバイクを自分の脚だけで追える人間なんているはずがない。さっきまでがおかしかっただけで、あの男にもちゃんと限界はある。

 しばらくして前方に平ボディの大型トラックが見えた。誠人は車線を移って追い越す。トラックもそれなりの速度で走っていたが、こちらの方がずっと速い。すぐに後方へ消えた。さらに二つ先の交差点を曲がり、交通量の少ない道へ入ったところで、ようやく速度を落とす。ミラーを見る。いない。足音も聞こえない。やっとだ。やっと、あの男を置いてきた。

 肺の奥に溜めていた息を吐いた時、後ろから大型車のエンジン音が近づいてきた。さっき追い越した平ボディのトラックだった。誠人が速度を落としたせいで追いついてきたらしい。どうでもよかった。道の左へ少し寄り、先へ行かせる。

 トラックが横を通った。

 何となく荷台を見た。

「…………」

 人がいた。

 荷台の後ろ。固定された資材の脇に、一人の男が低くしゃがみ込んでいる。少し長い髪。顎髭。痩せた身体。さっきまで自分の後ろを走っていた男だった。

「……は?」

 誠人の頭が、しばらく意味を受けつけなかった。男はこちらを見ていた。得意げでもなければ笑ってもいない。息も切れていない。ただ、誠人が自分に気づいたことを確認したように一度瞬きをした。

「なんで……」

 どうやって乗った。いつ乗った。九十キロまで出した。確かに離した。ミラーから消えた。その間に、このトラックへ追いついたのか。どこかで待っていたわけではない。このトラックはさっき誠人自身が追い越した車だ。

 ということは、あの男は後ろから来た。

 走って。

 追いついて。

 乗った。

「お前……」

 トラックが誠人を追い越していく。男が立ち上がった。

「おい」

 荷台の縁へ片足を掛ける。

「おい、待て」

 トラックは止まっていない。四十か、五十か。それくらいの速度は出ている。

「待て待て待て」

 男が飛び降りた。

「はあ!?」

 身体が宙へ出た。

 普通なら転ぶ。

 誠人はそう思った。

 走っている車から飛び降りれば、足から着地したところで身体だけ前へ持っていかれる。膝をつく。手をつく。転がる。肩を打つ。頭を打つ。何かが折れる。

 男の靴底が路面へ触れた。

 たっ。

 身体がほんの少し沈んだ。

 たっ。

 二歩目。

 たっ。

 三歩目。

 それだけだった。

 転ばなかった。手もつかなかった。よろめきもしなかった。走行中のトラックから飛び降りた勢いを、そのまま走る勢いに変えただけだった。

 たっ、たっ、たっ、たっ。

 誠人の背筋が凍った。

 知っている。

 その音を知っている。

 地下駐車場を出た時から何度も聞いた。離せば消えて、止まれば近づいてきた。あの足音だった。

 たっ、たっ、たっ、たっ。

 男は走っている。足首を気にする様子もない。膝も庇わない。肩で息もしない。シャツの裾と少し長い髪だけが風に揺れ、身体は最初から何も変わっていない。まるでトラックから飛び降りたのではなく、途中に少し高い段差があっただけみたいだった。

「なんなんだよ……」

 声が震えた。

 九十キロ出せば離せた。

 だから、まだ人間なのだと思った。

 違った。

 あの男は追いつけなくなったから諦めたんじゃない。追いつけない間だけ、横を通ったトラックを使った。それだけだった。

 その発想も、その方法も、その結果も、全部当たり前のことみたいに処理している。

 男の顔には何もない。

 出来るからやった。

 追う必要があるから追っている。

 それだけだった。

 たっ、たっ、たっ、たっ。

 その足音だけが、何事もなかったように続いている。

「やめろよ……」

 誠人はアクセルを開いた。男が小さくなる。だが、もう安心できなかった。距離なんて意味がない。九十キロ出しても意味がない。姿が消れても意味がない。見えなくなったら、次は何に乗っている。どこから降りてくる。そもそも、次も後ろから来るのか。

 それからは前まで怖くなった。路地を見る。歩道橋を見る。横を走る車の窓を見る。対向車を見る。停車しているトラックの荷台を見る。どこにもいない。だから怖い。見えている時より怖い。次にどこから、あの足音が始まるのか分からない。

 やがて赤信号に捕まった。横断歩道へ、飲食店から出てきたらしい五、六人の集団が入ってくる。その後ろには自転車を押した男が二人。右では大型トレーラーが右折中で、長い荷台が交差点を塞いでいる。左は縁石とガードレール。歩行者の間を抜けようにも、自転車二台とトレーラーで進路が細く潰れている。突っ込めば転倒する。転倒すれば、あいつが来る。

 誠人は止まるしかなかった。

「来るな……」

 ミラーを見る。誰もいない。

「来るなよ……」

 まだいない。ほんの少し息を吐いた、その時だった。

 たっ。

 背後で音がした。

 誠人の肩が跳ねる。

 たっ、たっ。

 ミラーの端へ人影が入る。

 たっ、たっ、たっ、たっ。

 来る。

 何事もなかったように。

 さっきまでと同じ顔で、同じ姿勢で、同じ足音を立てて。

「もう……なんなんだよ……」

 誠人は信号を見る。赤。横断歩道を見る。まだ人がいる。右はトレーラー。左はガードレール。動けない。足音だけが近づいてくる。十メートル。七メートル。五メートル。

 そこで止まった。

 やはり何もしない。

 誠人のすぐ後ろで、ただ立っている。

 横断歩道の人波が途切れる。トレーラーも曲がりきる。信号が青になる。

 誠人は逃げた。

 一拍。

 たっ、たっ、たっ、たっ。

 また追ってくる。

 その時になって、誠人は完全に確信した。追いつけないんじゃない。追いついていない。わざとだ。

 そう理解してからは、時間の感覚までおかしくなった。一時間なのか、それ以上なのかも分からない。腕が痛い。肩が凝っている。歯を食いしばり続けていたせいで顎まで痛かった。喉がからからに渇いている。途中から、速度を落とされた時だけ二人の会話まで聞こえるようになった。

「腹減った」

「終わったら何か食べる?」

「食う。ラーメンがいい」

「また?」

「いいだろ別に。昨日食ったから今日食っちゃ駄目って法律ないだろ」

「ないけど」

「博文は何か食いたいもんでもある? そっちでもいいよ」

「俺は何でもいいよ」

「それ一番困るやつだぞ」

 殺しに来た人間たちが、晩飯の相談をしていた。自分を追いながら。片方はバイク。片方は走っている。その時点でもうおかしいのに、会話の方には何の無理もなかった。痩せた男は息継ぎで言葉を切らない。声が震えない。語尾が掠れもしない。少し前には走行中のトラックから飛び降りた。それなのに、今夜何を食うかで普通に悩んでいる。

 怖いという感覚は、とっくに限界を越えていた。怒鳴りたい。泣きたい。誰かに助けを求めたい。だが停まれない。停まったら何をされるのか分からない。

 奈津美の顔が浮かんだ。今日になって初めて、まともに思い出した。別れ話をした時、奈津美は泣いていた。金は返すと言った。もちろん返す気なんてなかった。それでも奈津美は最後まで誠人を責めなかった。自分の何が悪かったの、と聞かれた。重いところ。そう答えた。あの時、奈津美はどんな顔をしていた。知らない。見ていなかった。

「俺は悪くない……」

 返事はない。

「勝手に死んだんだろ……俺が殺したわけじゃない……」

 アクセルを捻る。

「金だってあいつが勝手に……」

 エンジンが一度、咳き込んだ。

「は?」

 ほんの一瞬だけ出力が落ちる。すぐに戻った。警告灯には何も出ていない。

「やめろよ」

 また咳き込む。

「やめろって」

 後ろを見る。二人ともいる。痩せた男と目が合った。奈津美のために怒っているようにも見えない。ただこちらを見ていた。それが一番怖かった。

 コンビニが見えた。駐車場へ飛び込んで人のいるところへ逃げようとしたが、ちょうど配送車が出口から出てきた。大型の車体が半分車道へ出ていて、誠人の進路を完全に塞ぐ。対向車線へ避けようとしたところへセダンが来た。

「またかよ……!」

 ブレーキをかけ、そのまま次の道へ逃げようとする。だが横断歩道にはジョギング中らしい老夫婦がいた。

「クソッ……!」

 無視して右へ抜けようとハンドルを切りかける。無理だった。右側では路線バスが停留所へ入ろうとして車線を塞ぎ、左にはガードレール。老夫婦のすぐ後ろから電動自転車が二台続き、そのうち一台には前後に子供用シートがついていた。人を撥ねるのが嫌だからではない。自転車へ掠っただけでもバランスを崩す。転べばそこで終わる。

 止まるしかなかった。後ろの二人も止まった。痩せた男は歩道の端で足踏みすらせず、ただ立っている。胸がほとんど上下していない。もう一人がバイクのシールドを上げた。

「伊坂」

「ん?」

「今、何時?」

 痩せた男───伊坂と呼ばれた男がポケットからスマートフォンを出した。

「22時36分」

「結構かかったなあ」

「だから俺こういう仕事向いてないって言っただろ」

「でも依頼人の希望には沿えてるんじゃない?」

「知らない。俺、評価アンケート見るの嫌いなんだよ」

「見なきゃいいだろ」

「悪いこと書かれてたら嫌だ。傷つく。俺は繊細なんだ」

「だから見なきゃいいんだよ」

「良いこと書かれてるかもしれないだろ」

「じゃあ見れば」

「悪いこと書かれてたら嫌なんだよ」

「ああ言えばこういう。面倒くさいなあ」

「傷つくからそういう言い方はやめろ!」

 誠人はミラー越しに二人を見た。怖かった。会話の内容が怖いんじゃない。普通すぎる。そこが怖い。片方はバイクを追って走り、途中で走行中のトラックへ乗り、その荷台から飛び降りて、そのまま走り続けている。もう片方は、その男が隣を走っていることを一度も不思議がらない。それどころか、自分はバイクに長く乗っていて疲れたという顔をしている。

 老夫婦が渡り終えた。電動自転車も通り過ぎる。バスが停留所へ収まり、道が開いた。誠人は発進した。二人は止めなかった。後ろも動き出した。

 そこでようやく、今まで頭の隅に引っかかっていたものが形になった。こいつらは自分を捕まえられないんじゃない。捕まえていない。誠人が逃げれば追ってくる。止まれば近づく。手が届くところまで来ても、必ず一つだけ逃げ道が開く。信号が青になる。車が退く。横断歩道が空く。誠人がそこへ飛びつけば、また追う。

 逃げているんじゃない。

 逃げることまで含めて、やらされている。

 それでも逃げるしかなかった。捕まったあとに何があるのかを、誠人はもう知っている。できるだけ苦しめてほしい。その言葉が頭から離れなかった。

 エンジンが、また咳き込んだ。今度は長かった。ガッ、ガッ、と車体が前後に揺れる。

「頼む」

 アクセルを回す。

「頼む、頼む、頼む、頼む」

 戻らない。五十、四十、三十。ミラーの中で二人が大きくなる。二十。

「動けよ!」

 十。最後に一度だけエンジンが低く鳴り、そのまま沈黙した。

「嘘だろ……」

 惰性で道路脇へ寄せる。誠人は何度もセルを回した。キュルキュル、と乾いた音だけが響く。

「なんでだよ! 今日ガソリン入れたばっかだろ!」

 返事の代わりに、足音が近づいてきた。たっ、たっ、たっ、たっ。ずっと聞いていた音だ。誠人はバイクを捨てて走った。二歩、三歩。脚がもつれた。長時間同じ姿勢で跨がっていたせいで膝がまともに動かない。転びかけてガードレールへ手をつき、顔を上げた。

「うわっ」

 もう目の前にいた。伊坂と呼ばれていた男だった。いつ抜かれたのか分からない。あれだけ走っていたのに、呼吸はほとんど乱れていなかった。肩も上がっていない。額に薄く汗が滲んでいるくらいで、今ちょっとそこまで走ってきただけの人間みたいに立っている。誠人はさっき、この男が走行中のトラックから飛び降りるところを見た。なのに靴も服も、何事もなかったようにそこにある。

「なんなんだよ……なんなんだよ、お前……」

「伊坂恭平」

 聞きたいのは名前ではなかった。

「違う……そうじゃなくて……なんで……」

「何が?」

「なんで走って……」

 伊坂は自分の脚を見た。本当に質問の意味が分からないらしい。

「いや、追ってたから」

 誠人は言葉を失った。からかわれているのではない。本気だった。この男は、本当に自分の何がおかしいのか分かっていない。

「そうじゃねえよ! なんで平気なんだよ! いつまで走ってんだよ! トラックから飛び降りただろ! なんで追いつかねえんだよ! 追いつけただろ、お前! ずっと……ずっと俺が止まるたびに……!」

「ああ」

 ようやく分かったらしい。

「だって、すぐ捕まえたら駄目だし」

「……は?」

「できるだけ苦しめてほしいって依頼だから。メンタル的な意味もあるだろ」

 何でもないことのように言った。誠人の口が開いたまま止まる。この男は何時間もバイクを追って走ったことも、走行中のトラックへ乗ったことも、そこから飛び降りてそのまま走ったことも、息一つ切らさず立っていることも、全部まとめて仕事の途中にやったこととしか思っていない。

 後ろでエンジンが切れた。もう一人の男がヘルメットを脱ぎ、乱れた髪を手で軽く整えながらこちらへ歩いてくる。

「いやあ、久しぶりに長く運転すると疲れるなあ」

 苦笑していた。

 誠人は思わず伊坂を見る。走っていた男は平然としている。トラックから飛び降りた男も平然としている。その隣で、バイクに乗っていた男の方が疲れたと言っている。

「お疲れ、博文」

「お前は全然疲れてないな。なんで?」

「走る方が楽だろ。ずっと座ってんの腰痛くならない?」

「走る方が大変だと思うんだけどなあ……」

 伊坂は少し考え込んだ。本当に分からないらしい。それが怖かった。二人の中ですら、何が普通なのか噛み合っていない。それなのに、自分を殺すという一点だけは何の問題もなく共有されている。

 二人が並んだ。誠人は後ずさった。一歩。腰に硬いものが当たる。ガードレールだった。左右を見る。右へ走ろうとしたところへ車が一台来る。左へ出ようとすれば、ちょうど配送トラックが路肩へ寄ってきた。後ろのガードレールは数十メートル続き、その向こうは一段低くなった用水路だった。

 何も特別なことは起きていない。車が来ただけ。トラックが停まっただけ。自分がたまたま、ガードレールの前へ下がっただけ。それだけなのに、どこにも行けない。

 そこで初めて気づいた。今までは、あった。信号に止められても、やがて青になった。道を塞がれても、必ずどこか一方向だけ抜けられた。横断歩道で足止めされても、歩行者が渡りきれば道は開いた。痩せた男が手の届くところまで来ても、必ず逃げる場所だけは残っていた。何時間も、毎回、必ず。

 今だけない。

 誠人は、博文と呼ばれていた男を見た。

 男は何もしていなかった。

 最初からそうだった。誠人へ触れていない。バイクにも触っていない。道に何かを置いたわけでもない。エンジンがかからなかった。信号が変わった。車が出てきた。工事をしていた。スマートフォンが落ちた。電車が来た。横断歩道を人が渡った。エンジンが止まった。

 全部ただの偶然だった。

 一つ一つなら。

 誠人が見つめていることに気づいたのか、男が少し首を傾げた。

「ん?」

 それだけだった。

 何もしていない。

 本当に、何もしていない。

 だから余計に怖かった。

 痩せた男は、見ればおかしい。

 こちらはまだ分かる。走り続ける。トラックへ飛び乗る。走行中の荷台から飛び降りる。人間がやるにはおかしなことを、実際にやっている。

 だが、こっちは何だ。

 何もしていない。

 ただ後ろにいただけだ。

 それなのに、この男が追ってきた数時間、自分の前でだけ偶然が途切れなかった。

「じゃあ、捕まえようか」

 男が言った。ひどく気軽な声だった。脅す調子でもない。怒ってもいない。長く追い回した獲物を前にしているようにも見えない。忘れ物でも回収するみたいだった。

「うん」

 伊坂が頷いた。

 二人とも構えなかった。武器も出さない。誠人が左右を見ていることにも、たいして興味を示さない。逃げ道を塞ごうとすらしない。

 必要がないのだ。

 誠人はもう一度、左右を見た。右は車。左はトラック。後ろはガードレールと用水路。前には二人。何時間も、どれほど塞がれても必ず一つだけ残っていた逃げ道が、初めてどこにもなかった。

 その時になって、ようやく分かった。

 逃げ切れなかったんじゃない。

 追いつかれたんでもない。

 今まで逃げられていたことの方が、おかしかった。

 この二人が、もう逃がさなくていいと決めただけだった。

 

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