場内の照明が一斉に落ちると、伊坂が隣で小さく声を上げた。初めて映画館へ連れてこられた子供のような反応だったが、三十歳に近い男がやっているので、暗闇に紛れていなければ少し恥ずかしい。
もっとも、楯岡も他人のことは言えなかった。首から提げた関係者証が胸へ当たるたび手で押さえているし、選手紹介のパンフレットは折れないよう膝の上へ置いてある。何度か来た会場でも、大事に育てた直属の後輩が大きな大会へ出るとなれば勝手が違った。
正面のリングだけが白く浮かび、鉄骨のあいだから青い光が降りてくる。客席を埋めた人々は暗闇で息を潜め、入場口へ顔を向けていた。
スモールアップルには、一般企業の事務机へ収めておくには少々無理のある社員が何人もいる。
鑿目玄翁など、百九十センチを超えるうえに顔まで覚えやすい。一度依頼先の近所を歩けば、聞き込みでは「あのでかい男」と言うのが八人、「二メートルはあった」思い出すのが二人になる。
そこで会社は、体格のいい社員へ世を忍ぶ仮の姿を与えた。スモールアップル傘下のプロレス団体である。
大男が地方都市を歩いていても、プロレスラーなら不審に思われない。顔の傷も潰れた耳も、長期の不在も、だいたい試合か巡業で片づく。
海外へ送られれば武者修行になる。団体側にも、妙に受け身がうまく、関節が外れても自分ではめ直せる新人が定期的に入ってくる。
鑿目も昔は所属していた。リングでは派手に相手を投げ、興行後には子供を両肩へ乗せ、ある年、膝の故障を理由に惜しまれながら引退した。膝は壊れていない。殺し屋の仕事へ専念したくなっただけである。いまでは現役時代より長くOB面をしており、控室へ行くたび頼まれてもいない昔話を始める。
今日リングへ上がる逆井叶多は、鑿目ほどではないが、百八十センチの身長に厚い胸板と長い手足を持っている。
相手の力を流し、関節を取り、投げから押さえ込みへ滑らかに移る。殺し屋としてもプロレスラーとしても、正面から力比べをするより隙を奪う男だった。
彼は入社時から楯岡の直属の後輩であり、楯岡とは正反対に、よく不運へ当たる。
鍵を開ければ中で折れ、車へ乗れば事故渋滞、食堂で最後の定食を取れば味噌汁へ虫が落ちる。現場では標的が予定外の武器を持ち、逃走経路で工事が始まり、協力者は直前に食中毒を起こす。そばにいる人間も巻き添えになるため、逆井は基本的に一人で仕事をしていた。
ただし、死なない。銃弾は急所を外れ、崩れた建物では逆井のいた場所だけに隙間が残り、毒を飲めば直前に食べた傷んだ牡蠣ごと吐き出す。依頼までなぜか完遂して帰ってくる。
本人は、助かっているのではなく苦しみを長引かされているだけだと言う。
逆井叶多。逆さに叶うと書く。よくできた名前だった。
そんな逆井も、楯岡と一緒にいる時だけは、日常の隅で小さく運がよくなる。最初に二人で現場へ行った日、休憩中に買ったアイスの棒へ「あたり」と出た。逆井は五分ほど黙って見つめたあと、楯岡の肩へ額をつけて泣いた。人生において、はじめての「あたり」だったらしい。
以来、よく寄ってくる。廊下の反対側からでも来るし、食堂では別の卓へ置いた荷物を持ち直して隣へ座る。疲れている日は背後から身を屈めて楯岡の肩へ顎を乗せたまま動かず、放っておくと腕まで掴む。
楯岡が学生の頃、親戚一家が遊びに来た時にその家の長男はこんなかんじだった。六人兄弟の一番上で、甘え方が分からないなりに年上で甘やかしてくれる楯岡に縋りたかったのだろう。いじらしいものだ。
伊坂のように勝手に家へ上がり込み、冷蔵庫を開け、夜中に泣きながら電話をかけることはないので、楯岡も好きにさせている。直属の後輩としては、かなりかわいい方である。大人しく大きな野良犬に懐かれた感覚に近い。
今朝も逆井から、絶対に会場へ来てください、入場口から見える席へいてください、何もしなくていいのでそこにいてください、と念を押された。最後には楯岡の袖を握ったまま、来ると言うまで離さなかった。
関係者証は二枚あった。もう一枚は誰か一緒に来る人へ、と渡されたので、楯岡は隣の席にいた伊坂を誘った。伊坂は無料だと知った瞬間に行くと言い、会場へ来てからパンフレットとタオルを買い、知らない選手にも拍手を送り、売店の焼きそばを食べ、いまは逆井の名が印刷された黒いタオルを両手で持っている。実に充実した時間を過ごしている。性格には大きな難がある男だが、楽しむ時は全力で楽しんでくれるので、実は遊び相手としてとても優秀だった。
重い音楽が鳴り始めた。入場口の奥で白い照明が明滅し、黒と銀のガウンを羽織った逆井が現れる。客席から大きな歓声が上がる。
楯岡が最後に見た時より、名前を呼ぶ声が増えている。
逆井は両腕を広げ、ゆっくり通路を進んできた。仕事では目立たない黒い服ばかり着ているが、リングでは胸元まで開いた派手な衣装がよく似合う。
金茶に染めたツーブロックが綺麗に整えられており、鼻筋が通り、顎が強く、笑えば実年齢よりずっと若く見える。会社では外見を武器にする者も多く在籍しているので気付かれにくいが、普通に華があった。
こちらの席へ気づくと、逆井は一瞬だけ楯岡と目を合わせた。それから伊坂の持つタオルを見る。硬かった口元が僅かに緩んだ。
楯岡が片手を上げる。
「がんばれー」
「逆井くん、がんばれー!」
伊坂もタオルを揺らした。歓声に消えて届いたかは分からない。逆井はリングへ上がり、四方の客席へ頭を下げた。
今日の興行は、全国六団体から若手と中堅を集めた十六人制のワンデートーナメントだった。各試合には短めの制限時間が設けられ、優勝者は秋から始まる合同全国巡業の中心選手になる。
この大会では、勝敗を事前に取り決めない。少なくとも参加している外部団体はそう認識しているし、スモールアップルも地方企業が所有する普通のプロレス団体として、同じ規則で参加していることになっていた。
相手へ負けてくれと頼むことも、こちらが負けるつもりだと知らせることもできない。所属選手の本業が殺し屋であると知られたら、興行どころではない。
スモールアップルからは、逆井を含めて四人が出場していた。
ほかの三人は、技を見せ、客を沸かせ、勝ちそうになれば不自然でない程度の隙を一つ作り、一回戦か二回戦でほどよく敗退するつもりでいる。相手と示し合わせず、自分だけで試合の流れを負けへ運ぶのは、下手な殺しより難しい。そこを器用にやれる者だけが、会社の世を忍ぶ仮の姿を長く続けられた。
逆井も初戦で負けるつもりだった。
対戦相手は別団体の生え抜きで、逆井より十キロほど重い。試合映像を見る限り、正面からまともに受け続ければ、無理なく負けられる相手だった。
開始直後から強引に押し込み、逆井を場外へ落とした。鉄柵へ背中を打ちつけ、逆井が顔を歪める。演技ではない。痛いものは痛い。
相手は逆井をリングへ戻し、腰へ腕を回して持ち上げた。逆井は力を抜いた。
そのまま投げられるはずだった。
相手の右脚が滑る。汗を踏んだらしい。逆井を抱えたまま、後ろへ倒れかける。逆井は反射的に腰を捻った。腕を取り、体を入れ替え、倒れながら両脚で肩を挟む。
回転式の押さえ込みが決まった。
逆井はすぐ腰を浮かせ、相手を逃がそうとした。だが、相手が肩を返そうと力を込めた瞬間、身体が先に反応した。両脚が深く絡み、手首を取った腕が締まり、重心が最も返しにくい位置へ落ちる。
殺し屋として染みついた制圧の癖は、頭で止めるより速い。
「おおっ」
伊坂が身を乗り出し、審判がマットを叩く。一回、二回。
逆井は相手の腹越しに審判を見ていた。やめろ、と目が言っている。自分では解こうとしているのに、相手が逃げようとするたび身体がそれを妨害し、押さえ込みを完成させてしまう。
三回。
鐘が鳴り、会場が沸いた。
逆井はすぐ相手を放し、自分の両手を見た。審判に腕を持ち上げられても喜ばない。客席には、死闘を制して呆然としているように見えたらしい。逆井の名を呼ぶ声が大きくなる。
「勝った!」
「勝ったなあ」
「すごいよ。やっぱちゃんと考えて殺すやつって、プロレスも上手いんだな。俺なんかパンチしか分かんないもん」
「人前で殺すって言うなよ」
「この歓声なら聞こえない。今しか言えないよ」
伊坂は逆井が退場しても拍手していた。楯岡も拍手した。負ける予定だったとしても、勝利というものは良いものだ。
逆井は通路へ消える直前、こちらを振り返った。楯岡が笑って親指を立てると、首を横へ振る。今にも泣きそうな顔だった。
十五分後、控室へ続く通路から逆井が走ってきた。試合着の上にジャージを羽織っただけで、髪から汗が落ちている。関係者用の柵を跨ぎ、楯岡の前へ来るなり両膝をついた。大柄なので、それでも視線は近い。
「楯岡さん、どうしてですか」
「何が」
「俺、今日、一回戦で負けるつもりだったんです。相手の試合も見て、余計な反撃をしないで得意な流れへ乗れば、自然に負けられると思ってました。それなのに、あいつが滑って、俺が勝手に切り返したんです」
「相手には何も言ってないのか」
「言えるわけないでしょう。向こうは、うちを普通の会社が持っているプロレス団体だと思ってるんです。負けさせてくれなんて頼んだら、その場で試合より面倒なことになります」
「それなら、反射で切り返したのは仕方ないだろ」
「よくないです」
逆井は楯岡の膝へ両腕を載せ、その上へ額を押しつける。
「次も勝ったら全国巡業ですよ。会社の仕事を何件も断らなきゃいけない。俺、人を殺すために入社したのに、どうして人前で投げたり投げられたりしなきゃいけないんですか」
「どっちも人へ暴力を振るう仕事ではあるな」
「一緒にしないでください。プロレスは相手を殺したら怒られるんですよ。殺し屋の方が俺には向いてます。気を使って攻撃するのって苦手なんです、頭が痛くなる!」
「殺し屋でも、関係ない人を殺したら怒られるよ。始末書の書き方は教えただろ」
「分かってます。いま細かい正論を言わないでください」
逆井は顔を上げ、楯岡の上着の裾を握った。
「どうしても負けられない。このままだと俺はスター選手になってしまう!」
「負けたいんだろ」
「そうです、負けたいんです! 日本語まで勝つ方へ引っ張られてる!」
伊坂が買ったタオルを膝の上へ畳みながら訊く。
「スター選手になると給料は上がるのか」
「上がります」
「グッズの売上も入る?」
「少し入ります」
「会社の仕事より安全で、人から応援されて、給料も上がるのに嫌なのか」
「嫌です。顔と名前を全国へ売った殺し屋なんて使いにくいでしょう。先月も対象者の家を見張っている時、近所の中学生に写真を頼まれたんですよ。断った方が印象に残るから、一緒に撮りました。対象者を殺した翌日、SNSへ上がりました」
「捕まらなかったの」
「会った日の曜日を違えて書いてくれました」
「運がいいじゃん」
「その曜日は別の県で二人殺してました。そっちのアリバイが崩れかけました」
「運が悪いなあ」
「伊坂さんに言われると腹が立ちますね」
「どうしてだよ。俺ほど他人の不幸を理解できる人間はいないぞ」
「自分の話へ持っていくからです」
「持っていってない。俺の方が不幸だと教えて、相対的に慰めてるんだ」
「それを持っていくと言うんですよ」
逆井は言い返してから、また楯岡へ向き直った。両手で楯岡の片手を取り、自分の額へ押しつける。
「次こそお願いします。俺を負けさせてください」
「俺、誰かを負けさせたことないよ」
「そこにいるだけでいいんです。できれば俺だけ見ていてください」
「注文が増えたなあ」
「伊坂さんじゃなくて俺のことを考えてください。もっと強く居てください」
「存在の強弱を求められても困るよ」
通路の奥からスタッフが逆井を呼んだ。逆井は楯岡の手をまだ離さない。
「行ってこい」
「絶対いますか」
「いるよ」
「帰りませんか」
「帰らないよ」
「伊坂さんも?」
「焼きそばをもう一つ食べるまでは帰らない」
「そういう答えが一番不安なんですよ」
もう一度呼ばれ、逆井はようやく手を離した。立ち上がって三歩進み、戻ってきて楯岡の肩を一度掴み、それから控室へ走っていった。
二回戦は三十分後に始まった。
逆井は入場時から目に見えて沈んでいた。それでも客席へは手を上げる。リングに立てば、表情を消して背筋を伸ばす。実況は「今日も冷静です」と評したが、楯岡には拗ねているようにしか見えなかった。
相手は小柄で動きが速い。ロープの反動を使って何度も飛びかかり、蹴りを入れ、倒れた逆井を押さえ込む。
逆井は肩を上げなかった。
一回、二回。
これで終わる。逆井の口元が緩んだ。
三回目の直前、相手の腕が滑り、片方の肩がマットから離れた。審判はカウントを止める。
逆井は目を閉じたまま顔を歪めた。
もう一度押さえ込まれる。今度は逆井の脚が下段のロープへ触れている。審判がロープブレイクを告げた。逆井の脚は、最初からそこに置いてあった。
立たされ、首を取られ、腕を捻られる。相手が関節技へ入った。逆井はすぐ降参しようと手を持ち上げる。
その瞬間、相手の指がまた汗で滑った。
逆井の体が動く。手首を取り、腕を脇へ挟み、脚を首へ絡める。得意の複合関節技だった。
逆井は相手をロープへ逃がそうと脚を緩めた。だが、相手が身体を捻った瞬間、首へ絡んだ脚が反射的に締まり直す。相手はロープへ手を伸ばした。あと数センチ。指先がマットを一度叩く。
逆井が慌てて技を解いた時には、審判はすでに降参と判断していた。
鐘が鳴った。
逆井は技を解き、四つん這いのまま動かなくなった。観客は総立ちだった。劣勢から一瞬の隙を奪った逆転勝利にしか見えない。
「逆井くん、すごい!」
「関係者席で立つな。後ろが見えないだろ」
「あ、ごめんなさい」
素直に座ったが、顔は笑っている。楯岡も拍手した。技の流れは綺麗だった。
逆井は審判に腕を上げられながら、楯岡を睨んでいた。楯岡が、自分のせいではない、という意味で両手を上げる。
逆井は口だけで、嘘つき、と動かした。不満と甘えが一緒くたになった、子供のような膨れ面だった。
同じ団体から出場した残り三人は、その頃までに全員敗退していた。
一人は一回戦で僅差、一人は二回戦で大技を見せた末、最後の一人も優勝候補をかなり追い詰めてから負けた。外から見れば、全員が十分に健闘している。
実際には、三人とも勝ち切りそうになるたび、自分から一つだけ隙を作っていた。ロープへ逃げられる位置へ相手を押し、返せる角度で投げ、疲労に見せかけて反応を一瞬だけ遅らせる。相手がその隙を拾えるところまで丁寧に導き、そこから先は何も知らない顔で負ける。
殺し屋としてもプロレスラーとしても、器用な敗退だった。
三人はいま、関係者用通路の柵へ並び、逆井がそちらを見るたび笑顔で拳を突き上げている。
口の動きは、次も勝て、全国へ行け、スターになれ、である。
一人はどこから持ってきたのか、秋の巡業予定表まで扇子のように広げていた。
客席からは、敗れた仲間たちが最後に残った若手へ声援を送る、美しい光景に見えただろう。
実際には全員、器用に負け損ねた後輩を面白がっていた。
逆井は三人へ向かって、口だけで、殺す、と動かした。
三人とも殺し屋なので、特に脅しにはならない。むしろ誰かが親指を立てた。
準決勝へ進んだ時点で、大会運営側の空気まで変わった。勝敗へ手を出すことはできないが、突然現れた人気者を映像と実況で押し出すことはできる。
実況席では「予想外の快進撃」「今夜、スターが生まれるかもしれない」と声が上がり、大型画面には逆井が関節技を決めた瞬間が繰り返し映された。
伊坂は売店で二つ目の焼きそばを買って戻ってきた。
「逆井くん、人気あるな。タオルも売り切れてた」
「お前が持ってるのが最後だったのかもな」
「買えてよかった。運がいい」
「俺と来てるからじゃないか」
「そうか。やっぱり博文は俺の幸運だな」
伊坂は嬉しそうに焼きそばを食べている。楯岡は静かにリングを見た。
自分といる人間の運がよくなる、と周囲は言う。本人には作用しない。楯岡が宝くじを買っても当たらないし、急いでいても青信号より赤信号に捕まることの方が多い。
今日、楯岡の隣には伊坂がいる。
伊坂はプロレスを楽しみ、逆井が勝てばもう一試合見られると思っている。
楯岡も、少しおもしろいと思っていた。
負けたい時に限って、誰にも止められない強さを見せる後輩はかなりおもしろい。
「なあ伊坂」
「何?」
「逆井、次も勝ったらおもしろいと思う?」
「思う。ここまで来たら優勝してほしい。博文の後輩なら俺の後輩みたいなものだし」
「まあ部署的には直属じゃないだけで、後輩で合ってるな」
準決勝で逆井は、ほとんど何もしなかった。攻撃を受け、投げられ、何度倒されても立ち上がる。
負けるなら、そのまま寝ていればいい。だが審判が意識を確認しに来ると反射的に頷き、肩へ手をかけられれば立ってしまう。
観客には不屈の闘志と映った。逆井が立つたび歓声が大きくなる。
相手が焦り、逆井を肩へ担ぎ上げた。逆井は抵抗しない。
客席から子供の高い声で名前を呼ばれた。
逆井がそちらへ目を向ける。
相手の手がまたまた滑った。
頭から落ちかけた逆井は、長年の不運から身体が勝手に防衛反射で身を守ろうとする。殺し屋としての本能が、自分を攻撃してきた相手へ反撃を自動で行う。腕が相手の首へ絡み、着地と同時に足を払った。相手の体が回転し、背中から落ちる。
気づけば逆井は相手の上にいた。
三回。
逆井は天井を見上げた。
大型画面へ映った顔には、勝利の喜びではなく、何か大事なものを失った人間の静かな絶望があった。
それがまた観客へ受けた。
実況は「敗者への敬意を忘れない」「リング上でのみ己を語る男」と評した。昨夜、楯岡は電話で二十分ほど負けたい理由を聞かされている。リング上で喋らないのは、口を開けば負けさせてくれと頼み始めるからだった。
決勝前、逆井は関係者席へ来なかった。
代わりに楯岡の携帯電話へメッセージが届く。
〖応援しないでください〗
続けて、〖伊坂さんにも絶対に何も期待させないでください〗と来た。
楯岡はその画面を伊坂へ見せた。
「何も期待するなって」
「無理だよ。決勝まで来たら勝つところを見たいだろ。ここで負けたら、俺は中途半端な気持ちを抱えたまま帰ることになる」
「お前の後味に逆井の人生を使うなよ」
「俺だって逆井くんのためを思ってる。才能があるなら活かした方がいい。本当はプロレスが好きなのに、自分で分かっていないだけかもしれない」
「お前はもう少し自分を理解した方がいいな」
「俺は分かってる。寂しがり屋で、傷つきやすくて、優しい男なんだ」
「都合の悪いところが全部抜けてる」
自覚があるのだろう、伊坂は意地悪そうにイヒヒと笑っているので、楯岡はパシパシとその口を軽く叩いた。決勝の相手は、大会前から優勝候補の本命と見られていた選手。逆井より一回り大きく、全国巡業で主役を務めたこともある。入場しただけで会場が興奮で揺れた。
逆井が負けるには十分な相手に見えた。
試合が始まる。
逆井は何も返さない。何かを諦めたように投げられ、蹴られ、場外へ落とされる。実況席の机へ背中から突っ込み、椅子を巻き込んで倒れた。倒れた拍子に机の金具で額を浅く切り、血が眉尻から頬へ流れた。
相手は逆井をリングへ戻し、中央で決め技へ入った。逆井の体が高く持ち上がる。
逆井は目を閉じた。
会場の照明が一度だけ瞬いた。
大型画面の映像が止まり、逆井が初戦で見せた回転式の押さえ込みが画面いっぱいに映る。客席が沸いた。
相手の視線が逸れた。
腕が僅かに緩む。
逆井が肩を越えて背後へ落ちた。着地した足が相手の膝裏へ触れ、相手が体勢を崩す。倒れてくる人間を避けるため、逆井は腰へ腕を回した。
支える。
支えれば持ち上がる。
持ち上がった体重を逃がすために、逆井は回った。
大きな体が宙を一回転し、リング中央へ落ちた。逆井は惰性で両脚を抱える。
審判が滑り込む。
一回。
相手が腰を浮かせて返そうとする。逆井は両脚を放そうとした。だが、持ち上がる体重を感じた瞬間、腕が締まり、膝が畳まれ、押さえ込みがさらに深くなる。本人の意思より、相手を逃がさないための身体の癖が速かった。
リング下で何かが弾け、中央のマットが僅かに沈んだ。
二回。
逆井は首を横へ振っている。
三回。
鐘が鳴った。
伊坂が立ち上がった。今度は後ろの客も全員立っていた。
「勝った! 優勝した!」
「したなあ」
紙吹雪が舞い上がり、口の中に色とりどりの紙片が入り込む。ぺ、ぺ、と吐き出しながら、リングを見上げた。
逆井は相手の上から退き、膝をついたまま動かない。審判に促されて立ち上がり、大会優勝者へ贈られる記念ベルトを渡される。王座を示すものではなく、今回のトーナメントだけの賞品だった。大会の代表が、それを逆井の腰へ巻いた。
大型画面に、紙吹雪を浴びながら呆然と立つ逆井が映る。
客席から名前を呼ばれ、逆井は片手を上げた。
歓声がさらに大きくなった。
次のスターが生まれた瞬間だった。本人以外は、全員そう思っている。
試合後の挨拶を終えると、逆井はベルトを巻いたままリングを降りた。スタッフの制止を振り切り、まっすぐ関係者席へ来る。
紙吹雪が髪と肩に残っている。額から流れた血が頬まで届いていた。観客が動きを追い、何台ものカメラがこちらへ向いた。
逆井は楯岡の前で止まった。
「楯岡さん!」
「優勝おめでとう」
「おめでとうじゃないです!」
逆井は楯岡の両肩を掴み、そのまま顔を近づけた。
「なんでですか! 楯岡さんがいるのに!」
「俺、お前が勝つとおもしろいなあと思ってるからじゃないか?」
「俺も俺も」
伊坂が笑顔で手を上げる。
逆井は二人を交互に見た。
楯岡が何を望んでも、自分のためなら運は動かない。だが“楯岡以外の人間”が望めば別だった。
今日は伊坂がずっと隣にいる。
逆井の不運も、伊坂の望みも、同じ方向を向いていた。
逆井の顔から血の気が引いた。全てが終わった今となって、点と点が繋がった。気がつくのが遅い、これもまた不運だった。
「伊坂さんのせいじゃないですか!」
「あ」
伊坂も言われて理解したのだろう。スっと笑顔が消え、持っていたタオルを膝へ置き、自分の両手の平を見る。
「俺が勝ってほしいと思ったせいで、逆井くんの人生を変えたのか。他人の将来を軽率な好奇心で歪めた。俺はただ、試合がおもしろかったから、もう少し見たいと思っただけなのに。小さな欲望で一人の殺し屋を全国巡業へ追いやった。俺は最低だ」
伊坂は本気で、目に見えて落ち込み始めた。
逆井も勢いを削がれたらしい。逆井は伊坂のことを、楯岡と仲が良い同僚程度の認識しかない。いつもの嘆きなのに、真剣に考えてくれていると誤認したのだろう。
実際は、あまり考えてものを喋るような人間ではない。逆井は楯岡の肩を掴んだまま、伊坂を見る。
「いや、そこまで責めてません。伊坂さんが楯岡さんの性質を全部知っていたわけでもないですし」
「でも俺が望まなければ、逆井くんは負けられたかもしれない。俺が全部悪いんだ。俺は人の不幸を呼ぶ人間だったんだ」
「それは俺です」
「そうだった。逆井くんが不幸なのが一番悪いんじゃないか」
「なんでですか!」
「だって、逆井くんに才能がなければ、俺が勝ってほしいと思っても勝てなかっただろ。あんな綺麗な技を次々に出して、自分より大きな相手まで投げた。自分の才能で勝ったのに、全部俺のせいにするのはおかしい。俺は応援しただけだ。応援に来た人間が勝ってほしいと思うのは当然だろ。善意を責められた。俺はただ後輩を応援しただけなのに、人生を壊した犯人みたいに扱われた。俺はなんて不幸なんだ!」
自責から他責へ移るまで、一分もかからなかった。最後には予定どおり自己憐憫へ到着した。
逆井は優勝ベルトを巻いたまま固まっていた。リング上では僅かな隙から技を組み立てられる男も、伊坂の感情の流れにはついていけない。
「伊坂さん、さっきまで自分が最低だって言ってましたよね」
「人から責められて初めて、俺だけが悪いわけじゃないと気づいたんだ。俺は自分を責めすぎる。もっと自分を大事にしなきゃいけない」
「俺、伊坂さんを責めたことを反省しかけたんですけど」
「そうやってすぐ俺へ罪悪感を植えつける。俺は傷つきやすいのに」
「泣きたいのは俺ですよ」
「優勝した人が泣くと美談になる。俺が泣いても誰も慰めてくれない」
「楯岡さん、この人、普段からこうなんですか」
「今日はかなり穏やかな方だよ」
「これで?」
逆井は心底嫌そうに言い、楯岡の肩へ額を落とした。腰には優勝ベルト、頬には血、両腕は楯岡の首へ回りかけている。
外から見れば、激闘を終えた選手が恩人へ静かに感謝を伝えているように見えたらしい。客席から歓声が上がった。
「離れろ。写真を撮られてるよ」
「もう手遅れです。俺の人生も手遅れです。少しくらいこのままでいさせてください」
「重いなあ」
「優勝したんですから、今日くらい甘やかしてください」
「嫌がってたじゃん」
「嫌でも優勝は優勝です。俺は怪我もしています」
「急に権利として使い始めたな」
そこへ団体のスタッフが三人走ってきた。試合後の記者会見があるらしい。全国巡業、次のタイトル戦、雑誌の取材、動画配信への出演。予定が増えるたび、逆井の腕へ力が入る。
「楯岡さん、一緒に来てください」
「記者会見へ?」
「廊下まででいいです。置いていかないでください」
「子供じゃないんだから」
「今日は一人にしないでください。伊坂さんは来なくていいです。そこの消火栓とか見ていてください」
「なんで俺だけ」
撮影用のカメラが向くと、逆井は楯岡から離れ、反射的に姿勢を正した。顎を引き、表情を消す。
スタッフが目を輝かせる。
「逆井さん、最後にお二人と写真を一枚お願いします! 今日の勝利を支えた会社の先輩ですよね?」
「支えてません。この二人が俺をここまで追い込みました」
「いいですね、恩人への照れ隠し!もう一度お願いします!」
「照れてないです」
誰も逆井の言葉を聞いていなかった。不運である。
スタッフは逆井を中央へ立たせ、楯岡と伊坂を左右へ並べる。伊坂はさっきまで泣いていたのに、カメラを向けられるとタオルを広げた。楯岡は普通に笑った。
逆井だけが、優勝ベルトを巻き、頬へ血をつけ、魂を抜かれたような顔をしている。写真はその日のうちに団体の公式サイトへ掲載された。苦しい戦いを支えた二人の先輩と、勝利を静かに噛み締める逆井。そんな説明が誰の許しも得ずに事実として書かれた。不運である。
実際には、一刻も早く楯岡を連れて帰りたがっている男の顔だったが、事情を知らない者には、感情を表へ出さない渋い選手に見えたらしい。その写真をきっかけに逆井の人気はさらに上がった。
記者会見と撮影を終えた逆井が合流した頃には、日付が変わりかけていた。優勝ベルトは黒いケースへ収められ、逆井はひどく持ちにくい荷物のように提げている。
駐車場へ向かう途中、伊坂がコンビニへ寄りたいと言った。焼きそばを二つ食べたはずだが、応援すると腹が減るらしい。
「俺の不運で腹を空かせないでください」
「楯岡、逆井くんがまだ怒ってるみたい」
「目の前でチクらないでください。一体誰のせいですか」
「逆井くんの才能」
逆井は返事をせず、ぐっと身体を曲げて楯岡の肩へ額をぶつけた。
夕食を食べ損ねた逆井も結局店へ入り、楯岡が取った棒つきのアイスを受け取った。
店の外へ出ると、夜風が汗の乾いた髪を揺らす。逆井は楯岡のすぐ隣へ立ち、肩を触れたまま食べている。伊坂が楯岡の反対側へ並ぼうとすると、逆井は肩で楯岡を壁際へ押し、二人分あった隙を一人分にした。
「狭い」
「知りません」
それだけ言って、また黙々とアイスを齧る。
先に食べ終えた逆井は、棒を捨てかけて手を止めた。持ち手に小さく、【あたり】、と印刷されている。
しばらく見つめたあと、楯岡の袖を引いた。
「楯岡さん」
差し出された棒を見て、楯岡は頷いた。
「当たったな」
「ちゃんと見ました?」
「見たよ」
逆井は文字の上を指でなぞった。腰の横には優勝ベルトがあるというのに、そちらよりよほど大事そうに当たり棒を握っている。
「今日、思った通りになったの、これだけです」
「もう一本もらってくれば」
今日一番の明るい顔をして、コンビニに戻っていく背中を見守る。
残された伊坂は、自分の棒を裏返した。何も書かれていない。
「俺は外れた」
「普通はそうだよ」
「逆井くんは優勝して、アイスまで当たったのに」
「お前は試合を最後まで見られただろ」
「それは逆井くんの幸運だ。俺には何も残ってない。応援までしたのに、俺はなんて不幸なんだ」
楯岡は自分の棒を確かめた。こちらも外れだった。
やがて逆井が新しいアイスを持って出てきた。先ほどまでの陰気な顔が、ほんの少しだけ和らいでいた。
優勝ベルトの入ったケースが歩くたび脚へ当たる。逆井はそのたび嫌そうに眉を寄せるくせに、新しいアイスは落とさないようしっかりと握っていた。
秋の巡業も、何日か見に行ってやろうと楯岡は思った。
「次は絶対、伊坂さんを連れてこないでください」
考えを読んだように逆井が袖を引く。
「考えておくよ」
「ほんとかなあ、俺が来て欲しくないって願うと、たいてい来ちゃうんだよな……」
逆井は不満そうに楯岡の腕へ身を寄せた。
伊坂なら、次もきっと勝ってほしいと願うだろう。逆井には悪いが、今日よりもっと嫌そうな顔で勝つところを、楯岡は少し見てみたかった。
なお、この日三人が乗って帰ったのは楯岡の自家用車だったのだが、三日後、優勝ベルトが後部座席の足元へ置き忘れられていることが発覚した。逆井は連絡を受けて「あとで取りに行きます」と答えたものの、優勝をきっかけにプロレスの仕事が急増し、そのまま引き取りに来ていない。
現在、ベルトは職場の誰かが設置したナイフ投げ練習用のマネキンの腰へ、ぞんざいに引っかけられている。

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