午後一時を七分ほど過ぎた頃、楯岡博文は人材派遣会社スモールアップルの本社前へ到着した。
午前中は休みを取り、目覚ましをかけずに九時半まで眠り、近所の喫茶店で十一時までしか注文できないモーニングセットを滑り込みで食べ、ついでに髪も切ってきた。
紙袋には昼休みに間に合わなかった第三業務室の人間へ配るための小さな焼き菓子が入っている。
午前休を余すところなく使い切り、午後から清潔な髪と満ちた腹で出勤する。殺し屋としてではなく社会人として、優雅な一日の始まりだった。会社の正面玄関前に不審な女が立っていなければ、もう少し長くそう思えていただろう。
女は黒い革の上下へ赤い裏地の長衣を重ね、両腿に短剣、腰の後ろに折り畳み式らしい細身の弓、胸元には小瓶を十本ほど並べた革帯を巻いていた。
肘まである手袋には銀色の鋲が打たれ、片目を覆う眼帯から細い鎖が垂れている。夜の廃工場なら多少は馴染んだかもしれない。
真夏の午後一時、表向きは人材派遣会社である建物の前では、全く馴染んでいない。そもそも銃刀法違反である。近くを通った親子連れが二度見し、子供だけが素直に格好いいと喜んでいた。スモールアップルでは月に一度、オタク職員によるコスプレ出社の日がある……という名目で、あの女のようにうっかり本業用衣装を目撃されても言い訳出来るようなイベントを用意しているので、母親は「ああ、あの日なのね」と納得してくれたようだ。
他人の努力にタダ乗りする姿勢は納得がいかない。楯岡もオタクの賑わいのために、月に一度ゲームのキャラクターに扮装させられる。アラサー男性が、オタクでもないのに。仕事の一環として恥を忍んですね毛を剃っているのに。
だがまあ、通報されるよりマシだろう。楯岡は一度そのまま通り過ぎようとしたが、女が会社のロゴを見上げている。受付へ入られるより、自分が聞いた方がいい。
「どなたかお探しですか」
女が振り向いた。眼帯をしていない方の目が鋭く細まり、楯岡の頭から靴までを一度で確かめる。人間を見る目ではなく、武器を持っている場所と急所を探す目だった。立ち方にも隙がない。服装だけなら駆け出しの痛い殺し屋だが、中身の方はきちんとしているらしい。だが、人材派遣会社の社員にその警戒は要らないだろう。やるなら相手に悟らせないようにやるべきなので、やっぱり痛い殺し屋でしかない。
「デッドエンド・ナックルはいるか」
初めて聞く名前だった。けれどスモールアップルには、本人が名乗っていない通り名を持つ社員が何人もいる。
外部の人間は対象者の死体と噂しか見ないため、殺し方が少し変わっているだけで好き勝手な名前をつける。
鑿目など地域によって解体王、肉林の大工、百貫鋸、人体工務店と呼ばれているが、本人はどれも気に入り、社内プロフィールへ全部載せようとして総務に止められた。
逆に、逆井は以前所属していた組織が売り出し方へ力を入れていたため、本人の意思とは関係なく通り名が多かった。冷酷な殺人マッスィーン、冥府の番犬、無血の凶星、災厄を喰らう黒狼。たしか四つまでは聞いた。デッドエンド・ナックルは五つ目あたりにありそうな名前だった。逆井の得意技は投げと関節技だが、以前の会社にいた時は今より若く細身だったので、実際に何をしているかより恐ろしそうに聞こえることが優先されていたのかもしれない。
「冷酷な殺人マッスィーンなら、たしか静岡あたりへ巡業に出ていますが」
女の眉間へ皺が寄った。通じなかったらしい。楯岡は、では冥府の番犬の方かもしれない、と考えた。逆井が前組織で使われていた通り名を嫌っていることは知っている。スモールアップルがその組織を強襲して吸収した時、逆井は十六歳だった。
まだ現在のような厚い胸板はなく、黒い作業着の肩が余るほど細かった。
合併という言葉を使ってはいるが、実際には早朝に塀を爆破し、抵抗した人間を殺し、使えそうな設備と人員だけ持ち帰ったので、企業活動としては乱暴な部類に入る。
その頃の逆井は感情の起伏がほとんどなかった。仲間が死んでも動揺せず、知らない会社の人間に拘束されても怯えず、命令を受ければ相手が誰でも殺そうとした。
反抗的というより、服従先が切り替わっていないだけだったらしい。自分を育てた組織へ愛着があったわけでもない。命令を出す人間がまだ生きていたので、その命令を実行していた。
楯岡が初めて逆井を見た時、少年は会議室の椅子へ座らされ、手首の片方に結束帯が半端にぶら下がり、足元には拘束を試みた社員が一人倒れていた。死んではいなかったが、肘と肩が外れていた。楯岡は人事から渡された書類を読み、逆井の正面へ椅子を置いた。
「手首のそれ、痛くない?」
逆井は答えず、楯岡の喉を見ていた。恐怖や憎悪はなかった。魚みたいに、何を考えているか分からない目をしていた。だが、子供の頃金魚すくいで取った金魚を十一年育てたが、最後の方には何となく意思が分かるようになったので問題ないだろう。
「別に」
「うん、それは良かった。自分で外せるなら外していいよ。今日から俺がお前の教育担当だからよろしくな」
楯岡は彼の前へ社員証と寮の鍵を置くと、倒れていた社員の肩を元の位置へ入れ直した。
その日を境に、逆井は楯岡の指示だけは素直に聞くようになった。楯岡を強者と認めたわけではない。周囲へ幸運を与える性質についても、当時はまだ知らなかった。ただ服従する相手が切り替わっただけの、ひどく消極的な従順さである。それでも楯岡は、逆井が嫌がることを何ひとつ強いなかった。忠誠も感謝も要求せず、従ったことを恩にも着せない。逆井にとって楯岡は初めて、言うことを聞いても敗北したことにならない大人だった。
もっとも、その頃の本人には、それを信頼と呼べるほどの自我さえ育っていなかったらしい。現在の逆井は、自分の自我が発生したのは、楯岡と仕事へ出た帰りに棒つきアイスで人生初の当たりを引いた瞬間だと主張している。それ以前にも記憶や人格は存在していたが、自分にとって嬉しい出来事を、自分の喜びとして受け取れたのはあれが初めてだったのだという。いささか大袈裟な話ではあるものの、当たりと印字された棒をしばらく見つめたあと、楯岡の肩へ額を押しつけて泣いたのは事実だった。
それ以来、逆井の感情はかなり順調に育っている。とりわけ不満と甘えの方面へ、目覚ましい成長を遂げた。かつての通り名が社内へ知れ渡った時にも、以前なら無反応で済ませていたはずの男が、今では誰の目にも分かるほど恥じ、きちんと傷ついてみせた。ただし、殺し屋としての練度が自分と同等、あるいはそれ以上の先輩社員も多い。睨んだところで怯まず、脅したところで喜ばれるため、誰ひとりとして黙ってはくれなかった。
「おはようございます、冷酷な殺人マッスィーン。今日も冷酷に給湯室の麦茶を補充してくださる?」
「冥府の番犬、コピー機の紙がないぞ。番犬なら取ってこい」
第一特務課や第二処理課の社員は、逆井の姿を見るたび、くすくす笑いながら例の呼び名を口にした。本人にとっては紛れもない不運なので、当然、黙って受け入れるつもりはない。
一度など、笑っていた社員を止めようと席を立った瞬間、誰も食べた覚えのないバナナの皮が靴の下へ滑り込み、そのまま仰向けに転倒して後頭部を机へ打ちつけた。周囲が駆け寄った頃には注意するどころではなく、笑い声だけが先ほどより増えていた。
別の日には、廊下の向こうから「無血の凶星」と呼ぶ声が聞こえ、今度こそ黙らせようと足を向けたところ、右手の壁を突き破って暴れ牛が飛び出してきた。近隣のイベント会場から逃げた牛が二つ隣の建物を駆け抜け、どういう経路をたどったのか、スモールアップルの三階まで上がってきたらしい。
逆井は牛に追われて非常階段から屋上へ逃げ込み、ようやく戻った頃には、自分を弄っていた社員たちも満足して仕事へ戻っていた。
逆井の不運は、本人が嫌がることを、妙に丁寧な手順を踏んで実現する。
もっとも楯岡自身も、最初に「冷酷な殺人マッスィーン」という異名を聞かされた時には、プス、と鼻から笑いが漏れかけた。そこは大人なので咳へ変え、口元を押さえながら、前の会社は宣伝に力を入れていたんだな、と無難に処理しておく。逆井はその一度を見逃していない気もしたが、幸い追及されることはなかった。
「俺に優しくしてくれるのは楯岡さんだけです」
逆井はそう言ってむくれ、楯岡の肩へ顎を乗せた。目の前では先輩たちがまだ冷酷な殺人マッスィーンについて笑っている。大柄な青年がアラサー男性の肩へ体重を預け、慰めを要求している図は、外から見れば十分に可愛がられている後輩だった。
本人も本気で嫌なら離れればいいのに、弄ってくる人間の近くから動かない。冷酷な殺人マッスィーンは案外、職場へよく馴染んでいた。だから楯岡は、デッドエンド・ナックルも逆井の古い名前だろうと思った。それか最近作られたものだろう、逆井をからかう為に、そういう嫌がらせをする悪い先輩の顔が何個か浮かぶ。
「誤魔化すな。デッドエンド・ナックルがここにいることは分かっている!」
女が楯岡の胸ぐらを掴んだ。紙袋が腕へ当たり、中の焼き菓子が一つ潰れた感触がした。
襟元を締め上げる力は強く、身長差のおかげで爪先立ちになるほどではないが、喉へ布が食い込む。楯岡は女の手首へそっと触れた。自分の幸運は、自分のためには働かない。誰かが隣にいれば、女の手袋の縫い目が切れるか、足元の側溝が突然陥没するかしただろう。自分しかいない時は、午前休明けの会社前で知らない女に胸ぐらを掴まれる。
俺ってなんて不幸なんだ、と伊坂の口癖を頭の中だけで借りた。実際に声へ出すほど不幸ではない。まだ殴られてもいないし、焼き菓子も全部は潰れていない。
「落ち着いてください。人違いならこちらも確認しますし、そうでなくても会社の玄関で騒ぐと、お互い働きづらくなります。とりあえず手を離して、中でお茶でも飲みながら話しませんか」
女は離さない。むしろ拳へ力が入り、シャツの襟がさらに詰まる。楯岡は困ったなあと思った。
殺意はある。けれど今すぐ殺す気ではない。目的の相手を出すための人質にするつもりだろう。楯岡を人質に取る判断自体は正しい。社員の多くが助けようとする。ただし、助けようと思う人間が多すぎるので、無事に帰れる可能性は低い。
「会社の前でうるさ~い。迷惑なのでやめてくださーい」
気配も無く背後から伸びた細い手が、女の首元へ触れた。光を反射した針が耳の下へ沈み、すぐ抜ける。
女の身体が跳ねた。喉から声にならない息が漏れ、楯岡の襟を掴んでいた指が痙攣するように一本ずつほどける。そのまま膝から崩れた。麻痺したのではない。指は動いているし、呼吸もできている。ただ、筋肉を少し動かすたび、首から背骨、背骨から全身へ、肉を内側から細い刃で削られるような痛みが走っているらしい。
女は目を見開き、歯を食いしばったまま地面へ横倒しになった。
玄関から出てきた針生小鞠は、片手に社員証を提げ、もう片方の手で使い終わった針を小さなケースへ戻し、まるで罪のない顔でにこにこ笑っている。
「麻痺じゃないですよ。痛すぎて動けなくなる拷問用の毒です。同業者なら、これくらい大丈夫でしょ。……あっ、髪切りました? サッパリしてる~」
楯岡にだけ聞こえる声で言った。通行人がこちらを見ている。楯岡はシャツの襟を直し、すぐ女の肩を抱いた。針生も反対側へしゃがみ込む。二人とも、日頃から人の急病へ対応する一般企業の社員らしい顔を作った。
「大丈夫ですか!? 熱中症かもしれない、早く日陰へ!」
「ああー、誰か医務の人たすけてー。この人、急に倒れちゃいましたー」
女は意識があり、二人の声も聞こえている。口を開いたが、顎を動かした瞬間に全身へ激痛が走ったらしく、目尻に涙を浮かべて閉じた。
楯岡と針生は両脇を抱え、建物の中へ運び込んだ。受付の社員が事情を察し、来客用エレベーターではなく業務用を開ける。
医務室へ向かうふりをして地下へ降り、社内では聞き取り室と呼ばれている部屋へ入れた。壁と床は洗いやすい素材で、椅子には手首と足首を固定するための革帯がついている。窓はない。外の音も入らない。一般企業にも面談室くらいはあるだろうが、排水溝までは必要ないと思う。
毒が抜けるまで一時間ほど待ち、その間に無事だった焼き菓子を針生と分けて食べた。針生は有給が余っているからと、もともと午後休を取っていたらしい。今回は緊急対応扱いになるため、午後休は取り消され、半日分の有給が戻ったうえに手当までつくらしい。少し得をしたと、嬉しそうにピースしていた。
女は痛みが薄れても何も話さなかった。椅子へ縛られ、髪を乱し、唇を噛んで楯岡たちを睨んでいる。服装も合わせれば、くっ、殺せ、と言い出す直前の姿に見える。実際には一言も発していない。
楯岡は怪我もないから第三業務室へ知らせなくていいと言っていたが、針生が緊急対応手当を申請したせいで、受付から総務を経由し、今になって襲撃の報告が社内へ回ったらしい。
「所属を言わないなら、フリーランスですかね。会社の前で社員へ危害を加えていますし、もう殺しておいた方が早くないですか? 小鞠、新しい針を試したいんですけど」
「俺は胸ぐらを掴まれただけだから、そこまで怒ってないよ。目的を聞いてからでも遅くないだろ。ただ、身元が分からないまま外へ返すのは危ないな」
楯岡が女を見ると、女は顔を背けた。話す意思はないらしい。針生は机の上へ小さなケースを三つ並べ、どれにしようかな、と指先を順番に移動させている。中身の説明は聞かない方がいい。
廊下の奥から激しい足音が近づいてきた。何度か壁へ肩をぶつけ、誰かが制止する声を振り切り、最後には扉へ体当たりするように開く。
「楯岡!! 襲われたって、大丈夫か!? どこをやられた、怪我はないのか、首が赤いじゃないか! 誰だ、何をされた!?」
伊坂恭平が息を切らして飛び込んできた。楯岡の顔を見たあと、首、腕、腹と上から順番に確認し、両肩を掴んで立たせようとする。椅子に座っているだけで怪我はないのだが、本人の中ではすでに重傷者になっているらしい。
「ああ、針生さんが助けてくれたから大丈夫。シャツが少し伸びたくらいだよ」
「小鞠が助けちゃいました♡ 必要な時にいないとか、役に立たないね。やーくたあたずぅ♡」
伊坂が傷ついた顔をした。自分を責め始める直前の表情だったが、椅子へ縛られた女が伊坂を見た。片目が大きく見開かれる。さっきまで何をされても黙っていた口元が、初めて明確な興奮に歪んだ。
「来たな、デッドエンド・ナックル!! ここで会ったが百ね、」
「お前かコラァァ!! よくも楯岡を!!!」
女が名乗りも因縁も語り終えないうちに、伊坂の拳が顔面へ入る。今回の自責から他責はスピーディだった。
椅子ごと後ろへ吹き飛ばすような勢いはない。打撃としてはむしろ短く、腕もほとんど振りかぶっていなかった。ただ、拳が鼻梁へ触れた瞬間、首から上だけが壊れた玩具のように捻れて反り返り、顔の中央だけが内側へ陥没する。鼻骨と頬骨がまとめて砕け、押し上げられた眼球が大きく盛り上がった。そのまま首から力が抜け、不自然な角度で後ろへ垂れる。
即死だった。それでも脊髄反射だけはしばらく残り、固定された両脚が細かく跳ねた。革帯の上では指が何度も開閉する。脚が痙攣するたびに椅子の脚が床を叩き、カタ、カタ、と場違いに軽い音を響かせている。
楯岡は、あ、と小さく声を漏らした。名前も所属も、伊坂へ何の恨みがあるのかも、まだ何ひとつ聞いていない。聞き取りとしては完全な失敗だった。
それでも女が最後に叫んだ名前の方が、一瞬だけ職務上の反省に勝った。楯岡と針生は動かなくなった女へ目を落とし、次いで伊坂を見る。それから二人同時に腕を上げ、人差し指をまっすぐ彼へ向けた。
「デッドエンド・ナックル」
「え、なに?」
伊坂は、自分の後ろを振り返った。誰もいない。あるのは、椅子へ縛りつけられた死体だけだった。
「こいつがデッドエンド・ナックル……?」
背中越しにその呟きを聞いた瞬間、針生の肩が震え始めた。最初は口を閉じ、どうにか耐えようとしていたものの、ほどなく息が漏れ、ついには机へ片手をついて笑い出す。
楯岡も頭の中で、デッドエンドとナックルをもう一度つなぎ直した。
たしかに伊坂である。逆井の五つ目の通り名ではなかった。もっと直接的で、もっと身も蓋もなく、本人の殺し方をそのまま説明しただけの、外部の人間が勝手につけた名前だった。
「伊坂、お前のことだったんだな。デッドエンド・ナックル」
「どうして俺が? 俺はそんな名前を名乗ったことないぞ。ナックルは拳だろうけど、デッドエンドは何なんだ。誰がつけた? いつから? もしかして社外では前からそう呼ばれてたのか? 俺だけ知らなかったのか?」
針生はもう隠す気もなく声を上げて笑っている。楯岡も口元を押さえたが、今回は大人として処理できなかった。午前休を取った日に限って、会社の前で胸ぐらを掴まれたことには腹が立っていたし、せっかく買った焼き菓子も一つ潰された。しかし、その不幸と引き換えに伊坂の通り名を知ったのなら、少しくらいは得をした気がする。
「いや、似合ってるよ。デッドエンド・ナックル。殴られたらそこで人生が行き止まりになるんだろ」
「え? え? 何の話だよ。楯岡まで笑うなよ。俺はお前が襲われたから急いで来たんだぞ。心配して、仕事も途中で放り出して、階段を三段ずつ下りてきたんだ。足首も少し捻った。なのにどうして俺が笑われるんだ?」
伊坂は本気で困惑し、楯岡と針生の間で視線を何度も往復させた。その背後では、デッドエンド・ナックルを捜して会社まで来た女の死体が、まだ小さく痙攣している。
革帯へ固定された右手の爪だけが、一定の間隔で肘掛けの金具を叩いている。カタ、カタ、カタ、と、本人より先に通り名を理解した観客の拍手のような音だった。
─────黒衣と双剣を携え、海を越えて日本へ現れた若き暗殺者。彼女に殺しの技と生きる術を授けたのは、裏社会で長く名を馳せた暗殺者・梁国棟(リャン・グオドン)だった。
師弟として数多の死線を越えるうち、二人はやがて互いを唯一の伴侶と定める。しかし国棟は日本での活動中、伝説の殺し屋〈デッドエンド・ナックル〉によって命を奪われた。
亡骸さえ戻らず、残されたのは血に濡れた装身具と、死の間際に送られた短い言葉だけ。梓涵は悲嘆に沈む代わりに山へ籠もり、肉体と技を極限まで鍛え上げた。奪われた愛を弔うためではない。師を殺した男に自らの名を刻み、その命をもって復讐を完成させるために。幾年にも及ぶ修行を終えた今、彼女は因縁の地へ降り立つ。これは、すべてを失った女が伝説を殺し、自らもまた伝説となるまでの物語である。

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