ごめんなさいと言われたら もういいよとゆるしてあげるね

 八束宵一が久世家の次男を夢に見たのは、葬儀から二週間ほど経ったころだった。
 夢だと気づくまでには少しかかった。教室にいたからである。窓の外から蝉の声が聞こえていた。うるさいくらいのアブラゼミと、少し遠くで重なるミンミンゼミ。窓は半分開いていて、薄いカーテンがたまに膨らむ。机の上には飲みかけの紙パックと、購買で買ったパンの袋。黒板の右端には、次の日の小テストについて誰かが書いた字が残っている。
 
 見覚えがあった。夏休み前、部活へ行くまで時間があるからと二人で教室に残っていた日の続きだ。
 
 あの日もこんなふうに暑かった。制服は夏服で、宵一は半袖のシャツの袖をさらに一度折り、向かいに座った友人は机へ肘をついていた。
 何を話していたのかまでは思い出せない。新しく出たゲームとか、担任の口癖とか、妹が勝手に部屋へ入ってくるとか、そんなくだらない話だった気がする。ただ、向かいに座っている友人の顔だけが見えなかった。逆光でもないのに、首から上へ薄暗い影がかかっている。目も鼻も口も分からない。それでも誰なのかはすぐ分かった。
 エスカレーター式の同じ学校へ通い、机を挟んで何度も話した。付き合いの長さなら幼稚園からの幼なじみと言ってもいい。とは言え、同じクラスになったのは4回ほどだったが。
 それでも、肩の形も、座るとき少し猫背になる癖も、左手で紙パックを持つところも知っている。夢の中では、死んだことを忘れていた。だから宵一はごく普通に「お前、部活行かなくていいの」と聞いた。返事はない。蝉の声だけがやけに大きい。
 机の向こうで、友人の肩が震えた。笑っているのかと思った。違った。泣いている。「兄ちゃんを助けて」その一言で、宵一は全部思い出した。
 
 白楡ヶ丘。夜中の侵入。家族五人。犬。ニュース。葬式。遺影の中で笑っていた友人。
 
 棺の蓋が閉まる直前まで、これが本当にあいつなのかと変な感じがしていたことまで一気に戻ってくる。椅子を蹴るように立ち上がった。何を助けるんだ、と聞こうとしたのに喉から声が出ない。向かい側の友人は俯いたまま、もう一度同じことを言った。
 
「兄ちゃんを助けて」
 
 それから顔のない頭を上げた。見えないはずなのに目が合った気がした。蝉の声が途切れる。風も止まる。夏の教室が急に静まり返り、机の上に置かれていた紙パックの表面から水滴が一つ、やけにゆっくり落ちた。「俺、もう行かなきゃいけないから」そこで目が覚めた。
 
 
 
 午前三時四十二分。宵一は自室のベッドで起き上がり、しばらく何もせず壁を見ていた。
 
 夢だ。そう思った。夢に決まっている。友人が殺されてまだ二週間しか経っていない。葬儀にも出た。事件の記事も何度も見た。頭が勝手にそれらしい夢を作ったところで不思議ではない。そうやって納得して、もう一度眠ろうとした。眠れなかった。
 
 八束家には、昔からこういう話があったから余計に嫌だった。別に、八束家が代々ものすごい霊能力者だというわけではない。少なくとも宵一の父は普通の会社員で、母は幽霊の話をすると露骨に嫌な顔をする。
 祖父も寺を継いでいるわけでも神社を守っているわけでもなく、退職後は家庭菜園の出来ばかり気にしている。宵一自身だって、塩を撒けば霊が消えるとか、呪文を唱えれば悪霊が吹っ飛ぶとか、そんな便利なことは一つもできなかった。
 
 ただ、ごくたまに見なくていいものが見える。
 
 葬儀場の隅に誰かが立っているとか、誰もいない階段を人が上っていくとか、そういう程度。それも見えてしまったところで何もできない。
 
 遠い遠い昔、八束の先祖には、それをどうにかできる人間がいたらしい。古い家の記録には名前まで残っている。
 
 山を越えて呼ばれ、村や屋敷に居ついたものを鎮めたり、封じたりすることで知られた術者だったという。どこまで本当かは分からない。ただ、祖父は酒を飲むとたまにその話をした。
 
 昔、このあたりの村にも呼ばれたことがある。村人が拝んでいたものが、少し具合の悪い神になってしまったのだ、と。
 
 最初から悪いものだったわけではないらしい。山にいた何かを村人が呼び、社を作り、名前をつけた。余所者に荒らされたくない。怪しい人間が来ないようにしてほしい。悪い旅人に二度と来てほしくない。
 人々がそう願い続けるうち、その何かは願いを叶えるようになった。方法が少し極端だった。来ないでほしいと言われた人間を殺す。いなくなってほしいと願われれば殺す。怖いからどうにかして、と頼まれてもやっぱり殺す。
 
 それでも当時の村人にとっては、願いが叶ったことに変わりない。ありがたい神様だった。祭をして、酒を供え、神様が姿を現せば皆で迎えた。子供まで知っている、会いに行ける神様。そうして長いこと、人と神は仲良く暮らした。
 
 ところが人間のほうが変わっていった。昨日まで村の外の人間が死んでも気に留めなかった者たちの孫が、それを恐れるようになる。さらにその子供は、人を殺して願いを叶える神をありがたいとは思わなくなった。それでも神様の側は変わらない。教えられた通りに働いているだけだからだ。
 
 困っている人間がいる。嫌な相手がいる。ならば消せば喜んでもらえる。昔と同じように。
 
 困り果てた村人たちが、よそから呼んだのが八束の先祖だったという。その人は神様を殺さなかった。殺せなかったのかもしれない。
 
 ただ社の周囲へ札を貼り、縄を張り、外へ出ないよう封じた。そして、長い時間をかければ、いずれ信仰を失って元のものへ戻るだろうと考えたらしい。神様として与えられた名前も役目も忘れ、ただの山のもののけへ戻れば、あとは自然の中で生きて、そのうち消える。
 
 宵一は子供のころ、その話を聞いて「犬に待てさせたみたい」と言った。祖父は少し考えてから、まあそんなところだ、と答えた。
 
 馬鹿みたいな昔話である。その昔話が、今になって何故か引っかかった。翌朝になっても夢の内容を鮮明に覚えていた。昼になっても消えない。
 夕方、スマートフォンを開けば友人とのやり取りが残っている。最後のメッセージは、どうでもいいスタンプだった。ふざけたうさぎが耳でピースをしている。それを見ているうちに「兄ちゃんを助けて」がまた耳の奥で響いた。
 
「俺にどうしろってんだよ」
 
 死人に文句を言っても仕方がない。それでも、行くだけ行くことにした。
 
 
 
 白楡ヶ丘へ着いたのは日曜の午後だった。事件からそれなりの日数が経ち、住宅街はもう普段の生活へ戻ろうとしている。
 ニュースで何度も映った道を歩くのは妙な気分だった。友人の家へ遊びに行ったことは何度かある。学校からは少し遠く、敷地が馬鹿みたいに広くて、初めて来たときには金持ちって本当にこういう家に住んでるんだなと思った。
 
 庭では大きな茶色い犬が尻尾を振って迎えてくれた。番犬なのに知らない初対面の自分へ腹を見せて、友人から「お前ほんと使えねえな」と笑われていた。その家が見えてきたところで、宵一は足を止めた。何かいる。まだ塀の外だった。家すら半分しか見えていない。それなのに皮膚の下へ冷たいものが入り込んできた。ぞわぞわと腕の毛が立つ。
 
 息を吸えば、変な匂いがした。犬臭い。雨の日の大型犬を、そのまま何匹も狭い部屋へ押し込めたような濃い獣臭。毛皮と皮脂と、湿った土を混ぜたような匂いが鼻の奥へ張りつく。
 
 犬は死んでいる。それは知っている。あの優しくて愉快な犬は、もうどこにもいない。
 宵一はしばらく塀の前に立っていた。帰ろうかな、と思った。でも、夢の中で友人が泣いていた。生きてるうちは一度も聞いた事のない声で泣いていた。
 
「……見るだけ」
 
 誰に言うでもなく呟き、門の近くまで進む。そこで家を見た。正確には、家に重なっているものを見た。「うわ」声が出る。玄関から屋根まで、何かの気配が絡みついている。黒いとか赤いとか、そんな色では説明できない。家そのものが巨大な生き物の腹の中へ沈んでいるように見えた。
 
 塀も庭も窓も、全部がひとまとまりの領域になっている。中心は庭の犬小屋だった。あんなところに、何かいる。宵一の目には、犬小屋だけが異様に深く見えた。ただの日曜大工で作られたような簡素なものなのに、奥がない。覗けば山の中まで続いていそうな暗がり。その奥から、何かがこちらを見ている。実際に見ていないのに、鮮明なイメージだけが脳に叩きつけられてくる。
 
 視線を感じた瞬間、家の中で動くものがあった。宵一は固まった。最初に見えたのは腕だった。白い人間の腕が二本、廊下の壁を抜けてゆらゆら揺れている。それに続いて黒い髪が現れた。長く、妙に艶がある。次に顔が出てくる。二十歳前後だろうか。思っていたより若い。目鼻立ちが整っていて、頬も滑らかで、女顔というほどではないものの妙に愛嬌がある。普通に道を歩いていれば、少し綺麗な男だと思ったかもしれない。その顔の下に、人間の脚はなかった。
 
「…………は?」
 
 巨大な茶色い犬の身体が続いて出てきた。大型犬どころではない。虎くらいある。ベンガルだ。太い四本脚。黒い肉球。ふさふさした茶色の毛皮。その犬の身体に、本来なら首が生えているはずの場所から、人間の上半身が腰のあたりまで突き刺さっている。
 
 人間の両腕、犬の前脚、犬の後ろ脚。六本ある。四足で立っているのに、人間の胴体だけが上へ伸びていた。しかも、ひどくバランスが悪い。犬の身体はどっしり安定しているのに、その上へ載った人間部分が重すぎるのか、歩くたび上半身がぐにゃり、ぐにゃりと揺れる。腕も力なくぶら下がり、振り子のように左右へ遅れてついてきた。首まで一緒に傾く。なのに顔だけは穏やかで、黒髪の隙間から宵一をじっと見ている。
 犬臭さが一気に濃くなった。鼻の奥どころか喉まで獣の匂いで埋まる。宵一の頭の中に、子供のころ聞いた昔話が浮かんだ。
 
 山。村。社。人を殺す神。八束の先祖が封じたもの。
 
「いやいやいやいや」
 
 無理。これは無理。祖先が封じたからって、子孫にも同じことができると思うな。宵一は霊がちょっと見える高校生である。札も書けない。祝詞も知らない。妖怪退治の必殺技もない。家にある古い巻物だって、達筆すぎて読めない。目の前のものは、そういう人間がどうにかしていい大きさではなかった。
 
 化け物が一歩近づく。人間の上半身が前へ倒れ、危うく地面へ頭から突っ込みそうになったところで、犬の前脚が一歩出て支えた。その動きがまた怖い。出来損ないの人形を無理やり獣へ継ぎ足したようで、生き物としての形が根本からおかしい。
それなのに、顔は嬉しそうだった。
 
 
 
 
 
 ××さまも驚いていた。見える人間が来た。久しぶりだった。巫にはまだ自分の姿は見えていない。近所の小さい人間がたまにこちらを見るくらいで、こうして真正面から××さまを見ている大人に近い人間は何百年ぶりだろう。
 
 それに、この感じには覚えがある。ずっと昔、ものすごく怖い人間が来た。社のまわりへ何かを貼り、縄を張り、××さまへここから出ないでねと言った人間。あれと少し似ている。同じ人間かと思ったけれど、顔が違った。小さい。弱そう。怖い人間はもっと怖かった。なら、仲間だろうか。
 
 ××さまは考えた。もしかしたら、謝りに来たのかもしれない。昔の人間は××さまを閉じ込めた。そのせいで長い間、巫も祭もなくなった。とても寂しかった。
 
 でも、もういい。今は新しい巫がいる。毎日撫でてくれる。ごはんもくれる。綺麗なものもいっぱいくれる。お願いまでたくさんしてくれる。だから、もしこの人間がごめんなさいをするなら許してあげよう。××さまは友好的な気持ちで、にこ、と笑った。
 
 
 
 
 宵一から見ると、とんでもなかった。命の危険でしかない。己の中の危機管理を司る部分がピーピーとなり続けている。なにしろ、巨大な山犬の首元から生えた青年が、ぐにゃりと上半身を傾けながら笑ったのである。
 
「ひっ」
 
 喉の奥から情けない音が出た。××さまはさらに一歩近づく。その背後にある家が、どくんと脈打ったように見えた。家中にいる。こいつの気配が。庭だけではない。玄関にも、居間にも、二階にも、亡くなった家族の仏壇があるらしい部屋にも染み込んでいる。
 
 友人の兄が暮らしている家そのものが、完全にこいつの巣になっていた。兄ちゃんを助けて。夢の中の声が蘇る。
 
「無理だろ!」
 
 思わず叫んだ。××さまが首を傾げる。人間の首と胴がぐにゃりと右へ倒れ、遅れて長い腕がぶらんと揺れる。宵一は踵を返した。走った。全力だった。友人の兄へ挨拶するとか、様子を見るとか、そんな予定は全部吹っ飛んだ。門を離れ、住宅街の坂を駆け下りる。後ろは見ない。見たら何かいる気がする。肺が痛くなるまで走り、角を二つ曲がり、公園を越え、ようやく人通りの多い道へ出てから振り返った。誰も追ってきていない。宵一は電柱へ手をつき、ぜえぜえ息を吐いた。
 
 
「なんだよ、あれ……」
 
 
 友人は、あれから兄を助けろと言ったのか。無茶を言うな。自分にはどうにもできない。そもそも彼の兄は、あの化け物がいることに気づいているのか。
 
 スマートフォンを取り出した。友人の兄の連絡先は知らない。友人とのトーク画面を開き、意味もなくスクロールする。最後のほうには家族の話も犬の写真も残っている。茶色い大きな犬が床へ腹をつけて寝そべり、その上へ三歳の妹が半分乗っている写真まであった。
 
 
 夢に出てきた本人は、もういない。宵一にもそれは分かった。あれが最後だった。家族も犬も、あの家には残っていない。
 むしろ、あれだけ丁寧に送られれば残りようがない。何人もの僧侶が読経し、親族が手を合わせ、学校の友人まで泣きながら冥福を祈った。犬も同じように家族として骨を拾われ、ちゃんと供養されている。死者を送り出すための願いが、あの家族には幾重にも重ねられていた。友人だけが最後に一度、こちらへ手を伸ばした。兄ちゃんを助けて。それを宵一へ渡して、今度こそ行ってしまった。だから、もう本人に聞くこともできない。
 
「どう助けろっつーんだよ……」
 
 宵一はその場へしゃがみ込んだ。遠くに白楡ヶ丘の家々が見えている。その中の一軒で、友人の兄は今日も家族へ手を合わせているのだろう。死んだ両親へ。弟へ。妹たちへ。犬へ。ここにいてくれと願い、まだそばにいてほしいと祈っている。その祈りを、本人たちはもう受け取れない。代わりに犬小屋の中へ居座った何かが、ひとつ残らず食べている。宵一は顔を覆った。
 
「最悪じゃん……」
 
 
 
 
 同じころ、××さまは門のところでしばらく待っていた。逃げていった人間は戻ってこない。謝りに来たと思ったのに、何も言わずに帰ってしまった。
 少し不思議だったけれど、怒ってはいない。あの怖い人間と似た感じがしたから、きっと何か関係があるのだろう。昔のことを気にしているのかもしれない。顔を合わせにくいのだろう。
 
 でも、本当にもういいのだ。××さまには巫がいる。巫は優しい。昔の人間に閉じ込められたことも、長いあいだ一人だったことも、今は前ほど悲しくない。今度来たら、ごめんなさいを言わせて、それで許してあげよう。そう決めて家へ戻った。居間には男がいた。何も知らず、仏壇の前へ新しい菓子を置いている。
 
「これ、好きだったよな」
 
 誰に向けた言葉なのか、××さまには分からない。でも、供え物なので自分のものだと思った。嬉しい。××さまは大きな茶色い身体を床へ伏せ、長い腕を伸ばして男のすぐそばまで這って、××さまは機嫌よく尾を振った。

 男はふと、どこからか犬の匂いがしたような気がして振り返る。何もいない。それでも少しだけ笑い、手を伸ばしていつものように空中を撫でた。××さまはすぐさま頭を滑り込ませる。んふふ。今日も撫でてもらえた。今日もとっても、良い一日だった。
 
 

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