いきてきたるif④

 病院の面談室は、どこも同じ匂いがする。消毒液と、古い紙と、金属の冷たさ。窓はあるのに外は遠くて、ここだけ世界から切り取られているみたいだった。
 その部屋の中央に、轟炎司が立っていた。窮屈そうにスーツを着込み、肩幅と熱量だけで狭い部屋を圧迫している。

 対面の医師は、資料を整えながら淡々と口を開いた。白衣の襟元はきっちりしていて、声も同じくらいきっちりしている。
 そしてその医者の頭の後ろには、妙に角張った吹き出しが飛んでいた。『報告』とだけポコポコと浮かんでは消えるそれを見て、生きにくそうな個性だと改めて思う。

「お忙しいところをありがとうございます。ですが今日は、謝罪やお気持ちの確認のためではありません。子供たちの安全と治療のための説明です」

 炎司が何か言おうとして口を開きかけ、閉じた。声にしようとした熱が、舌の裏で止まる。
 緊急出動を依頼された東京でのヴィラン暴走事件を終わらせて自宅に帰れば、子供たちは全て連れさらわれていた。
 留守番電話に入れられた報告で納得できるものでは無い。怒りが熱に変わり部屋の温度が上がるのを、医者の個性が『火気厳禁』と釘を刺す。言い返すより早く、机の上に置かれたファイルが開かれた。紙の音が、妙に大きい。

「結論から言います。現在、お子さん四名のうち三名​─────冬美さん、夏雄さん、焦凍さんは、当院の管理下で保護、ならびに入院扱いになっています。長男の陽火さんも同様に入院中です。こちらは医学的に必要な措置です」

 吹き出しが『冷静に』と出て、その下に小さく『怒』がついた。文字が二重になって揺れては消え、医者の精神状態を表しているようだ。

「保護と入院、という言葉が気に入らないのは理解します。ただ、ここは法的な言葉の遊び場ではありません。必要な状況に必要な言葉を使います。これは保護です」

 眉間がわずかに寄る。
 医者はその反応を確認した上で、次の紙を一枚だけ前に滑らせた。そこには簡潔な時系列が記されていた。

「既知の情報ですが、全体の説明のために繰り返します。数日前、陽火さんが吐血と失神で搬送され、二日間意識が戻りませんでした。原因は身体疾患というより、心理的ショックと慢性的な過覚醒の蓄積です。これはすでに診断として記録しています」

 吹き出しが『休養』『必要』になった。太字で大きく、見せつけるように膨らみ、静かに消える。炎司の脳が、その言葉を「理解」するより先に、映像が割り込んできた。あの瞬間だ。

 熱と焦げた匂いと、泣き声と、全部が渦になっていた中で、陽火が一度だけ口を開いた。口をついて出た謝罪を聞いた直後の、あの、理解できないものを見るみたいな顔。驚いているのが先で、怒りも憎しみも形になりきらないまま、口を開く。その口から零れるように血が落ちて、陽火が抱きしめていた夏雄と焦凍の髪に斑が散った。

 空気が一瞬で冷え、子供たちの泣き声は悲鳴に変わる。陽火は抵抗しなかった。身を守る腕すら上がらず、まるで糸が切れた人形のように、ただ横へ崩れた。ほどけて落ちるような、防御を知らない動きだった。落ちた身体を支えようと触れた瞬間の感触が、今も手のひらに残っている。
 見た目は大きく成長した。肩幅もある。なのに、持ち上げた時の重さが軽かった。軽すぎて、抱えた側の身体が一瞬バランスを失うくらいだった。骨が当たる。服の下が薄い。熱の塊みたいに見えていたのに、中身は空洞みたいだった。自分が張り飛ばした衝撃に耐えられる体じゃない、その事実が重さで分かってしまって、遅れて胃が冷たくなる。血の匂いが鼻の奥に貼り付き、陽火の目が一度だけこちらを見た。責める目ではない。助けを求める目でもない。ただ、起きていることが自分でも分からないという顔だった。次に瞬きが途切れ、瞳の焦点がすっと消えて、身体が完全に力を失って目が閉じられた。

 あのとき炎司は、止められなかったのではなく、止めるという発想自体が遅れていた。強さで守れると思っていた世界で、強さが子供を壊していく瞬間を、目の前で見た。
 それが今、医者の淡々とした声に引きずり出され、面談室の無臭の空気の中で、もう一度だけ再生された。

 

「その後、陽火さんが意識を取り戻し、帰宅できない状態のまま、自宅の様子を確認しようとしたところ、夏雄さんから緊急性の高い通話がありました。
内容は録音で確認済みです。言語の破綻、強い恐怖、助けを求める反復。医学的には急性ストレス反応、もしくはパニック発作に近い状態でした」

 医者は言葉を区切り、炎司をまっすぐ見た。
 吹き出しが一瞬『見ろ』になる。『見ろ』『聞け』『見ろ』繰り返し、吹き出しが飛び出る。
 パソコンから流れた音声は、引き攣り吃り、泣きじゃくる子供の声。仕事柄、何度も聞いたことのある、“命の危険が迫った時”の声だった。その声は、自分の子供の声だった。

 通いの者がいたはず、事務所の若手に様子を見させていたはず、それなのに、炎司には何の情報も来ていない。これはどういう事だ、と考えている間にも、医者の言葉が続いている。

 

「こちらは私の判断で、保護者への連絡を待たずに自宅へ同行しました。理由は単純です。通話内容から、未成年のみが取り残されている可能性が高く、放置が危険だったからです。……補足します。当院は念のため、ご自宅の連絡体制についても確認しました。通いの方、事務所側の連絡先、いずれも“即応できる状態ではありませんでした”」

 吹き出しが『機能不全』とだけ表示される。それは非難ではなく、事実のラベルだった。
 炎司の眉間に皺が寄り、部屋の温度が上がる。
 反論はまだ出ない。出せない。

「ご自宅では、お子さん三名が押し入れの中に身を寄せていました。隠れていたのではありません。身を畳んで、存在を消そうとしていました。
中央に小さな灯りがありました。陽火さんの個性によるものです。冬美さん達はその光に依存するように囲み、呼吸を殺し、泣き声を出さずに時間が過ぎるのを待っていた。誤解のないように言っておきます」

 医師は一度、言葉を切った。

「その灯りがなければ、三名はもっと早い段階で破綻していた可能性が高い」

 『不可欠』が浮かび、次の瞬間、苛立つように『固定』へ塗り替わった。

「だからこそ問題なのです。安全が“人”に紐づいた。光そのものではなく、光を出す兄の存在に」

 吹き出しが『異常』と出た。次に『当然の帰結』。

「その場で私は、三名を当院へ移送しました。拒否がなかったからではありません。拒否できる精神状態ではなかったからです。保護者の許可を待つ余裕はありませんでした」

 ここで医者は、机の上の別のファイルを開いた。中には書類の束。署名欄と捺印欄が揃ったもの。紙の赤が先に目に入って、言葉が後から追いついた。

「必要な書類はすでに整っています。お母様​─────冷さんが内容を確認し、捺印済みです」

 炎司の喉が、わずかに鳴る。息を吸ったはずなのに、胸に空気が落ちてこない。視線が一度だけ紙から外れ、すぐに戻る。逃げ道を探す反射が、間に合わない。

「母親の冷さんの病状についても説明します。子供たちを当院で一括して保護、入院とした結果、表面上は回復傾向が見られます。つまり、強い不安要因が一時的に除かれたということです」

 肩が、ほんのわずかに落ちる。
 その落ち方は安堵にも見えるし、別の何かを飲み込んだようにも見えた。

「ただし、ここで誤解しないでください。回復傾向は『原因が解消した』という意味ではありません。『刺激が減った』というだけです。刺激が戻れば再燃します」

 吹き出しが『安静』『維持』になった。
 医者は次の項目へ移る。ここからが今日の主題なのだろう。紙の上の字が、急に鋭利になる。

「三名が陽火さんに強く依存している点について、説明します」

 炎司の目がわずかに動く。
 医者は、ためらわずに言った。

「依存は、信頼の延長ではありません。これは、生存のための固定です。
長男がいるかいないかで、子供たちの自律神経の状態が変わっている。睡眠、食欲、会話、表情。長男が不在になった二日間で、顕著に崩れました」

 吹き出しが『機能不全』と出て、続けて『問題』と出た。

「原因は一言で言えます。保護者が保護者として機能していない時間が長すぎた。
保護者の欠落という穴を、長男が埋めた。本人の意思というより、環境がそうさせた。
結果として弟妹は『長男がいれば安全』という学習をしている。安全が兄に紐づいてしまった」

 医者は一度言葉を止め、静かな間を置いた。

 

「個人的な評価は述べません。必要なのは再発防止の因子です。……この家で、一番治療が必要なのは貴方です。貴方は威圧と支配で家庭を維持している。これは家族の治療として、最も危険です」

 

 炎司の胸に、異物が落ちた。理解ではなく反射が先に来る。喉の奥が瞬間的に狭まり、肺に入るはずの空気が途中で止まる。反発が湧いた。ほとんど条件反射だった。治療が必要なのは俺じゃない。俺は守る側だ。守るために戦ってきた。守るために燃やしてきた。俺が壊れるなんて、そんなはずはない。そんな前提で世界を見たことは一度もない。

 だが、その声は言葉になる前に絡まった。身体の奥、胸骨の裏あたりで、湿った綿のように重なり合い、押し固められて、外へ出る通路を塞いでしまう。反論の形を取れないまま、感情だけが内側で膨張していく。

 内側には、ずっと名前のつかない怒りが渦巻いていた。誰にも頼らずに、守れなかったことへの怒り。子供たちを危険に晒してしまったという事実そのものへの怒り。そして何より、自分の限界を認めたくないという、最も扱いづらい怒り。

 届かない光。失った我が子。反抗的な眼。捕縛したヴィランがこちらを見る、あの怯えた眼。その眼と同じ種類のものを、子供たちが自分に向ける。記憶が時間を無視して重なり合い、同時に胸の奥で震えた。否定したいのに、否定するための理屈が立ち上がらない。

 そして確かに、どこかで思ってしまった。
 この消えない怒りは、誰のためのものだったんだろう。

 「正義」は、「強さ」だけで良かったのか。
 強ければ守れるという考え方は、どこまでが正しくて、どこからがただの思考停止だったのか。

 医者の言葉は、その曖昧な疑問を正面から突いてきた。逃げ場を作らない角度で。炎司の視線が一瞬だけ揺れる。反抗したい自分と、同時に、どこかでその指摘が腑に落ちていく感覚が、はっきりと同居していた。否定できないという事実そのものが、胸に重くのしかかる。

 俺が治療を必要としている。
 そうなのかもしれない。
 怒りは完全に消えたわけではないが、尖りは鈍り、代わりに重くて静かな認識が、沈殿物のように胸の底に溜まっていく。逃げようとしても、もう逃げ道の形が見えなかった。

 

「……さらに、夏雄さんには『自分が皆を守る』という強迫的な役割意識が見られます。これは子供が持つには過剰な責任感で、今回、包丁を持って立ち塞がった行動として表出しました」

 

 その言葉の途中で、炎司の呼吸が一拍だけ乱れた。
 深く息を吸おうとして、わずかに間に合わない。喉の奥で空気が引っかかり、かすかな音を立てる。それは怒りでも反論でもなかった。身体が一瞬だけ、現実を正確に飲み込めなかったときの反応だった。

 包丁、という単語が、思考より先に映像を引きずり出す。細い腕。力の入りきらない握り。守るために前に出た、その姿。 

 ヴィランを見る、抵抗する被害者の眼だった。

 

「刺す意思があったかどうかは問題ではありません。子供が『武器を持たないと守れない』という結論に至ったことが問題です」

 守るために力を持つ。それは、炎司自身が信じてきた理屈だった。
 それが、子供の手に包丁として現れた事実を、まだうまく処理できない。

「焦凍さんは、泣き声を出さずに前に出ましたね。これは勇敢ではありません。感情表出を止めることで場を保とうとする、幼児の凍結反応です。
冬美さんは泣くことを我慢していた。これも同様です。皆、反応が一貫している。家庭内で『感情を出すと危険になる』経験が積み重なっている証拠です」

 紙が一枚めくられる音がする。その音だけが、やけに鮮明に耳に残る。

「さて。ここからが、あなたにお願いする『やるべきこと』と『やらないこと』です」

 吹き出しが『重要』と浮かぶ。炎司はその文字を見ているはずなのに、実際には見ていなかった。意識は、すでに次の言葉を受け取る準備を強制されている。

「やるべきこと。第一に、あなたは治療方針に同意し、必要な手続きと費用を滞りなく支払うこと。これは罰金ではなく治療費です。第二に、家庭内の安全計画を作ること。子供が一人にならない、恐怖を感じたら逃げ込める場所を用意する、連絡網を作る。第三者の介入も含めます。第三に、子供たちの主治医との定期的な面談に出ること。あなたの言い分を聞く場ではありません。子供の状態を共有し、あなたが守る側の行動を学ぶ場です」

 吹き出しが『学べ』と出る。たぶん炎司に向けて。
 その文字を見た瞬間、炎司は理解した。これは命令でも説教でもない。逃げ道を塞いだ上で、選択肢を一つに絞るための説明だ。守る側であり続けたいなら、学ばなければならない。力ではなく、方法を。

「第四に、陽火さんの治療を、あなたが妨げないこと。陽火さんは『休まない』のではなく『休めない』状態です。彼の身体はすでに限界を越えています。彼が倒れたのは偶然ではありません」

 医者は一度、言葉を切った。その沈黙は、説明を補うためのものではなかった。受け取る側が勝手に希望や反論を挟み込む余地を、意図的に削ぎ落とすための間だった。その静止の中で、吹き出しがひとつだけ浮かぶ。大きくも強くもない、しかしやけに視界から逃げない文字。

『まだ子供』

 その短い言葉が、理屈より先に身体に刺さる。炎司の胸の奥で、何かが微かに鳴った。それが痛みなのか、認識が擦れる音なのかは分からない。ただ、否定するための言葉が、どこにも見当たらなかった。

「やらないこと。これが重要です」

 吹き出しが『禁忌』に変わる。その文字は警告ではない。選択肢から排除された行為の一覧だと、炎司は直感的に理解した。

「一、叱責による指導。二、説教による納得の強要。三、沈黙で押し切ること。四、説明のない生活環境の変更。五、子供の前での正当化。六、長男に保護者役を戻すこと」

 項目は淡々と読み上げられる。声の調子は変わらない。だが、六番目に差しかかった瞬間、炎司の瞳がわずかに揺れた。視線は紙の上に落ちているはずなのに、文字を追っていない。そこに書かれている言葉が、すでに理解の手前で身体に触れている。医者はそれを確認することもなく、予定通りに踏み込んだ。

「特に六番目です。あなたはおそらく、『面倒を見ろ』とは言わない。言わなくても済むと思っている。しかし……言葉がなくても、役割は伝わります」

 静かな声が続く。糾弾ではない。事実の列挙だ。

「黙って任せる。気づいたらそこにいる前提で動く。困った時に名前を呼ぶ。そのすべてが命令です」

 吹き出しが『違う』と大きく揺れた。その揺れは、炎司の中にある「違うはずだ」という感覚と、容赦なく重なり、正反対の意味を持つ。

「あなたの家では、『頼んでいない』は免罪符になりません。長男は察することに慣れすぎている。察して、背負って、動く。それをあなたが止めなければ、彼は続けます。彼は、続けられてしまうからです」

 続けられてしまう、という言い回しが、炎司の胸に引っかかる。能力の話ではない。責任感の美談でもない。環境が許してしまった結果だという、逃げ場のない指摘。

「しかし、背負えることと、背負うべきことは違う」

 その言葉を聞いた瞬間、炎司の手が膝の上で拳になる。力を込めたつもりはない。ただ、力が抜けなかった。怒りなのか、羞恥なのか、あるいはもっと別の、名前を与える前に喉で詰まってしまう感情なのか、自分でも判別できない。ただ確かなのは、反論の形を取れる感情が一つも残っていないという事実だった。
 医者は、そのどれにも踏み込まない。慰めもしないし、追い打ちもかけない。ただ、淡々と事実と因果を並べ続ける。その無関心さが、かえって逃げ道を塞いでいた。

陽火さんに『弟妹の面倒を見ろ』という意味を含む行動を、二度としないでください。声をかけないことも、期待を置くことも、空いた席を用意することも含めてです。命令は言葉だけではありません。環境で、態度で、前提で行われます。そして命令は、子供を壊します」

 医者は一拍だけ置いた。詰めるためではなく、逃げ道を塞ぐための間だった。

「そして、あなたが今後するべき最短の行動をひとつだけ言います」

 吹き出しが『これだけ』になった。小さく、しかし他の文字をすべて押しのけるように、そこに残る。

「子供たちに『助けを呼んでよかった』と言ってください。叱らない。評価しない。正しさで塗り替えない。貴方の子供たちは助けを呼べました。迎えに来て、と言えた。生き延びるための行動が出来たんです」

 ほんのわずかに口を開いた。言葉になる前の息が喉に引っかかり、胸まで落ちてこない。声が形を持つ前に、医者はそれを遮った。

「あなたが今、謝りたいのは分かります。ただし謝罪は、使い方を間違えると子供に責任を渡します。『許すかどうか』を、子供に選ばせない。謝るなら、大人としてやるべきことをやった後です」

 吹き出しが『順序』と出る。揺れず、ただそこにある。
 炎司は目を伏せたまま、短く息を吐いた。熱はない。吐いた息はただの空気で、炎になる前に消えた。今の彼は、燃やす力を持つ人間ではなく、呼吸を続けているだけの人間だった。

「……子供たちは」

 掠れた声が、ようやく喉を通る。問いというより、確認に近い。医者はその温度を受け取らず、事実だけを選んで答える。

「現時点では、当院で安定しています。四人が同じ環境に集まった結果、冷さんの表面症状は落ち着いています」

 医者は、言い切る前にほんの一瞬だけ間を置いた。それは声を選ぶための間ではない。受け取り方を制限するための間だった。希望として誤読される余地を、言葉の前に切り落とすための、意図的な沈黙。

「理由は単純です。子供たちが、彼女の視界と管理下にいるからです。所在が分かり、命の危険が予測できる状態になった。冷さんが崩れていた原因は感情ではありません。不安です。しかも、先の読めない不安だった」

 吹き出しが『可視化』と浮かび、すぐに『制御』へと書き換わる。

「不安要因が減った結果、症状が落ち着いているだけです。原因が解消されたわけではありません」

 淡々とした声は、感情を削ぎ落とした事実だけを並べていく。希望も絶望も混ざらない。ただ、現象と因果だけが積み上げられていく。

陽火さんは、医療的には回復に向かっています」

 一拍置かれる。その間に、炎司の胸の奥で何かが僅かに持ち上がる。だが、医者はそれを許さない。

「ただし、彼が動けば、また倒れます。彼は休まないのではありません。休めない。役割が外れない限り、身体が先に限界を迎えます」

 医者の視線が、炎司を一度だけ正面から捉えた。責めるためでも、確かめるためでもない。視線そのものが、結論だった。その一瞬で十分だった。

「弟妹は、兄の存在によって落ち着いています。しかしそれは安心ではありません。依存です。安全が特定の人間に紐づいた状態は、長く持続しません。だから時間をかけて、『兄がいなくても大丈夫』という前提を作り直します」

 吹き出しが『時間』と表示される。それは待てば解決するという意味ではない。必要量を省けない、という意味だった。

「あなたは、それを邪魔しないでください。家庭が整うまで、子供たちはこちらが守ります。これはあなたを責めるための措置ではありません。壊れる前に、手を分けるための判断です」

 医者は最後に、机の上の書類の一番上に指を置いた。判子の赤が、妙に鮮やかだった。血の色に似ているのに、そこには痛みも怒りもない。ただ、効力だけがある色だった。

「冷さんは、内容を確認し、捺印しました。つまり母親は、『自分が今、万全に守れる状態ではない』ことを受け入れた。そして、子供を守るための手続きを選んだ。次は、あなたです」

 炎司の視線は、紙から外れない。外した瞬間に、何かが音を立てて崩れると、理屈ではなく身体が理解していた。

「あなたがやるべきなのは、あなたの正しさの証明ではありません。子供の安全が、偶然ではなく、再現可能であることの証明です」

 吹き出しが『証明』と出る。その下に、小さく『行動で』が添えられる。文字は揺れない。修正もされない。最初から、それで確定している。

「なお、面会は可能です。ただし最初の三回は、必ず医療者同席とします。これはあなたを制限するためではありません。同席は、子供の身体が『安全』を学び直すためです」

 燃え盛っていた身体の中心が、ゆっくりと冷えていく。熱も声も、すぐには戻らない。怒りに変わる前の温度すら、身体が思い出せずにいる。ただ、机の上の赤い印だけが、逃げ道を塞ぐように、そこにあった。

 無意識に、内ポケットの端に触れる。そこにあるはずの携帯電話の感触を思い出し、指が止まる。連絡すれば、誰かが何とかしてくれる。その思考が、反射のように立ち上がる。
 その「誰か」の輪郭が、自然と一人に収束していく。

 ──────連絡すれば、陽火が何とかする。
 そう考えていた自分に、気づいた。

 ただそこにあるだけの紙から目を離せないまま、ペンを取った。
 ペン先が紙を削り文字が歪む、そんな甘い言い訳も許されないはずなのに、指先だけが妙に言うことを聞かない。署名欄に名前を書き、捺印欄へ印鑑を押す。
 朱肉の赤が滲んで、紙の上にただの効力として残った。これで終わりじゃない、終わらせない、というだけの印だ。医者が次の紙を差し出す。

「では、あなたご自身の治療も同時に進めます。こちらは初診予約です」

 炎司は頷くしかなかった。守る側でいるなら学べ、という言葉が、今さら遅れて肺の奥に落ちてくる。口を開けば謝罪が出そうになるのに、医者の『順序』が頭の後ろで動かない杭みたいに刺さっていて、言葉が形にならない。

 謝れない。許すかどうかの重荷を子供に背負わせたくない。分かっているのに、分かっているからこそ苦しい。謝罪ができないということが、こんなに苦しいことだとは思わなかった。

 炎司は喉の奥で一度だけ息を詰まらせ、熱のない声で言った。乞う言葉は苦い。いつぶりだろうか、もう思い出せないほど久しぶりに、頭を下げた。

「……必要なものを、全部、 教えてください」

 それが今できる最短の“行動”だった。