夏はそこで止まっている

 母に弟がいると知ったのは、祖母の家へ着いた時だった。門から玄関まで妙に距離があり、庭の半分くらいは何を植えているのか分からない状態で、緑色のホースが途中に放り出されていた。母が引き戸へ手をかける前に、向こう側から戸が開き、白い半袖シャツを着た男が顔を出した。

 痩せた人だった。少し姿勢が悪く、伸びかけの髪は、前髪の一部だけ寝癖なのか変な方向へ曲がっている。母よりかなり若く見えたが、近くで見るとかえって年齢が分からなくなった。皺が特別多いわけでも、白髪が目立つわけでもない。それなのに目の下が少し黒く、頬も痩せているせいで、二十代にも四十代にも見える。口元だけなら、高校生みたいに見える瞬間さえあった。

「来てくれたんだね。遠かったでしょう。僕はそっちへ行かないから、実際どれくらいかかるのか知らないんだけど、朝に出たならかなり時間かかったよね。暑かったでしょう。途中のバス、まだ本数少ないのかな」

 母は返事をせず、そのまま靴を脱いだ。僕が男の方を見ると、こちらを見ないまま「あんたのおじさん。私の弟」とだけ言った。それでようやく、この人が叔父なのだと分かった。

 叔父は僕の顔を見ようとして、少し横へ視線をずらした。こちらから目を合わせようとすると、焦点だけがするりと逃げる。人を嫌っているというより、目が合ったあとに自分が何をすればいいのか分からない人に見えた。
 
「赤ちゃんの時に一度会ってるんだけど、覚えてないよね。僕も顔までは覚えてない。小さかったってことだけは覚えてるけど、それは赤ちゃんだから当たり前なんだよね。大きくなったね、と言おうと思ったけど、ずっと会ってない人間が言うのも変だと思って」

 叔父が少し笑ったので、僕もとりあえず笑い返した。母が先に廊下を歩き始めると、叔父はその背中へ「ねえさん」と声をかける。呼び方だけが妙に幼くて、先に行く姉を呼び止める子供の声みたいだった。

「荷物、僕が持とうか。重いものがあるなら持てるよ。こういう時くらいは何かした方がいいと思うし、僕も何もできないわけじゃないから」

「自分のことをやってて。こっちはいいから」

 母は振り返らなかった。叔父は少しだけ肩を落とし、僕と二人で玄関に残った。僕は自分の鞄を持っているし、叔父も特にやることはない。お互いに目が合わないまま、僕たちは数秒ほどそこに立っていた。

 祖母の家は古かった。玄関から廊下へ上がると、場所によって床の鳴る音が違う。台所の前だけ少し沈み、壁に掛かったカレンダーは六月のまま止まっていた。古いエアコンだけは妙によく効いていて、外との温度差に腕へ鳥肌が立つ。居間には、祖母が白い布を掛けられて寝かされていた。

 母に言われて、顔のところだけ布をめくった。祖母の顔を見るのはそれが初めてで、死んだ人を見るのも初めてだった。怖いというより、よく分からない。肌は白く、鼻には綿が詰めてあり、口が少し開いている。頬には細かな斑点があった。この人が僕の祖母なのだと頭では分かるのに、知っている人が死んだという感じはまったくしなかった。

 母は祖母の横へ座ったが、やはり泣かなかった。叔父は少し離れたところに立ち、首に掛けた細い鎖へ何度も触れていた。襟元から、小さな黄色いものが覗いている。透明というほどではなく、ところどころ白く濁った石で、形もきれいに整えられてはいない。簡単な金属の枠がついていて、そこへ鎖を通してあるだけだった。

 僕が見ていることに気づいたのか、叔父は石を服の中へしまった。それでも、鎖から指は離れなかった。

 葬儀は翌日で、その日の午後から親戚が次々に集まってきた。僕はほとんど全員知らないのに、向こうはこちらを見るだけで「ユキちゃんのところの子でしょう」と分かるらしい。母の名前は由紀子なので、昔はユキちゃんと呼ばれていたのだろう。どうでもいいことなのに、なぜかそこだけ妙に印象に残った。

 台所には大量のペットボトルのお茶やスーパーのオードブルが積まれ、誰が買ったのか分からないみたらし団子まで置いてあった。
 親戚たちは叔父を無視するわけではなく、叔父がお茶を運べば礼も言うし、必要があれば普通に用事を頼む。ただ、声をかける前にほんの一瞬だけ間があった。夕食の席でも叔父の両隣だけなかなか埋まらず、理由の分からない僕が片方へ座った。

 叔父は唐揚げを一個食べたあと、冷奴を箸で細かく崩していた。醤油もかけず、食べるわけでもなく、ひたすら四角い豆腐を小さくしている。僕が見ていることに気づくと、「豆腐、好きじゃないのに取っちゃった」と小声で言った。

「そういう時ってありますよね」

「ね」

 叔父は短く返して、少し笑った。話し方は回りくどいけれど、別に意地の悪いところもない。なのに、どうしてこの人が少し周りから距離を取られているのか、僕にはよく分からなかった。これが田舎というものなのだろうか。

 

 夜、トイレから戻る途中、台所で皿を洗っていた女の人たちの話が聞こえた。僕が廊下にいるとは思っていないようだった。

「あの子、これからどうするの。ばあさまがいたから今まで何とかなってたけど、この家に一人は無理でしょう。ユキさんが連れて帰るとは思えないし、病院だって本人が嫌がったら簡単にはいかないよ」

「昔よりはましになったっていうけどね。自分でご飯も作るし、買い物にも行くし。ただ、あれを普通に一人暮らしできるって言っていいのかは、ちょっと分からないよ」

 僕はそのまま通り過ぎた。叔父はどう見ても「あの子」と呼ばれる年齢ではないのに、この家に来てから、誰も叔父を普通の大人として扱っていないような気がする。

 

 翌日の夕方、近所の酒屋へ飲み物を買いに行かされた。紙に銘柄と本数を書いて渡されたのは、ビールの名前が似ていて僕には区別がつかなかったからだ。
 門を出ると、向かいの家の軒下に白いランニングシャツ姿の老人が座っていた。片手には蠅叩き。僕を見るなり「どこの子だ」と尋ねてきたので、祖母の孫だと説明すると、すぐに「ああ、姉ちゃんの方か」と納得した。

「泊まるなら、オジサンとはあんまり二人きりにならん方がいいぞ。今は何もしないと思うけど、昔、悪さしたからよ。友達の墓を漁って遺骨盗んで、毎日水をかけてたんだと。何のまじないかわからんが、頭が可笑しい。まあ、ずいぶん昔の話だし、ばあさんがいた頃はこの話をすると怒られたから、俺が言ったとは言うなよ」

 老人はそこまで一気に喋り、最後だけ少し声を落とした。余計なことを言った自覚はあるらしい。

 酒屋へ向かう途中に、小さな公園があった。錆びた滑り台と鉄棒があり、ブランコはない。端には細長い花壇があって、赤や黄色の花がいくつか咲いている。種類は分からなかった。その一角だけ土が黒く濡れていたが、近くにホースは見当たらなかった。

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