ここはよいとこ
そうか。あの音は、ボールの音だったのか。
つまり俺はついに、人間の手持ちというものになってしまったらしい。そう気づいた頃には、背中にあった傷も、身体中の痛みも、すっかりなくなっていた。
噛まれたところも引っかかれたところも綺麗になっていて、あれだけひどい目に遭ったのが嘘みたいだった。
人間は、クリスピンというらしい。
『クリスピンさん。クリスピンさん』
ハブネークは、届かない声で何度もその名前を呼んだ。珍しかったのだ。種族の名前とは別に、自分だけの呼び名を持っている生き物なんて、これまで見たことがなかった。
ザングースへの悪口として【白毛むくじゃら】だの【くそけだま】だのと呼んだことはあるし、仲間から【一番でっかい】と呼ばれたこともある。けれど、それは名前ではない。【一番でっかい】なんて、もっとでかい奴が来ればその日から自分のものではなくなる。名前というのは、そういうものとは違うらしい。クリスピンは、いつでもクリスピンだった。
『クリスピンさん、腹減った』
ハブネークの声は、人間の耳にはシャーシャー、ガラガラと、蛇の立てる音にしか聞こえない。
「はいはい、飯なー」
それでも半分くらいは通じるので、そのたびに心臓のあたりがぬるくなった。
ここは、いいところだ。
誰もハブネークを追いかけ回さない。嫌な白い毛玉もいない。身体が大きいというだけで寄ってきて、何もしていない自分を勝手に頼り、後ろへ隠れる幼い仲間もいない。強いから戦えとも、大きいから守れとも言われない。逃げたって怒られないし、そもそも逃げなくていい。
ここにいるのは、ハブネークを守ってくれる人間だ。
何かが来ればクリスピンが前に立つ。怪我をすれば治してくれる。腹が減れば食べ物をくれる。眠っているときに無理やり起こされたこともない。たまに身体を撫でてくるけれど、嫌がればちゃんと手を引っ込める。
そんな生き物がいることを、ハブネークは今まで知らなかった。
出会ったのは、父と慕うには遅すぎた。友と呼ぶには、あまりにも守られすぎていた。
だからなのか、ハブネークはいつの間にか、クリスピンの名前を呼ばなくなっていた。
『アナタ』
「おー。どうしたんだ、お前。甘えたい気分か?」
『うん。そんなかんじさ』
するすると身体を寄せれば、クリスピンの手が頭の後ろを撫でてくれる。逃げなくてもいいと分かってからずいぶん経つのに、こうして触れられるたび、まだ少しだけ不思議だった。
シャーシャー、ガラガラと、蛇は鳴く。

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