(蛇足。ハブネークに足を。未来。人間と人間)
うんざりした気持ちで、目の前の男を見る。俺の視線に気づいたのか、二つ年上の先輩は、にぃ、と目を細めて笑った。整った顔立ちのせいで黙っていれば近寄りがたいくらいなのに、その笑い方だけは妙に人懐っこい。
「どうしたの、アナタ。なにか俺に用事?なんでもやるよ。言ってみて?」
献身的な言葉がするすると続く。いつも通りだ。この先輩は、入学式で出会ったその日からずっとこんな感じだった。
漫画みたいに女子からキャーキャー言われている、いわゆる学園のアイドル(笑)な生徒会メンバー、その会計サマ。
入学式では新入生に校章のバッジを渡す係をしていて、俺は別に先輩を狙ったわけでもなく、適当に列の短いところへ並んだだけだった。担当は眼鏡をかけた女子生徒だったはずなのに、いざ俺の番になると、なぜか反対側からこの人がとことこ歩いてきて、その女子の仕事を当然のように奪った。
そうしてバッジをつけてくれるでもなく、俺の顔をまじまじと眺めたあと、両手で俺の手を包み込むように握って、にぃ、と笑ったのだ。
「みつけた。俺の大切な人間のアナタ」
「なんだこのリリカルホモが、手ぇ離しやがれ」
周囲から、断末魔みたいなキャーーと、なぜか喜んでいる黄色いキャーーが同時に上がった。あの日からずっと、こんな感じである。
二つ上のはずの先輩は、なぜか俺の時間割に合わせて顔を出す。休み時間ならまだしも、時には授業中にまでしれっと後ろの扉から入ってくるので意味が分からない。
教師の目を絶妙にかいくぐっている技術だけは大したものだが、そんなことに才能を使ったところで出席日数は増えない。むしろ確実にごりごり削れている。生徒会の会計もいつの間にか辞めていた。そのせいで俺は何ひとつ悪いことをしていないのに、この人のファンだの元生徒会の仲間だの、一部の教師だのからじっとりと睨まれている。完全なもらい事故だ。俺の学校生活は、この先輩と知り合ってから明らかに生きづらくなった。
「先輩、授業行かないんスか」
「んー。今はいいんだぁ」
「いや、もうぎりぎりでしょ。出ないとヤバいっすよ」
「うん。あとちょっとで留年確定って言われた」
「分かってんなら行けよ……」
「来年は同じクラスになろうねえ」
「それが狙いかー!!」
思わず襟首を掴み、そのまま廊下を引きずっていく。この野郎、何考えてやがる。二歳年上の人間が、留年して同級生になろうとしている。そんな長期計画を嬉しそうに語るな。
先輩は抵抗するどころか、首が締まりそうで締まらない絶妙な力加減で引きずられながら、けらけら笑っていた。腹が立つ。俺はこの人の保護者ではない。
─────そんなふうに後ろ首を掴まれて引きずられながら、男はひどく幸せだった。
整った顔は黙っていればどこかひやりと冷たく、他人からは何を考えているのか分からないと言われることも多かったが、いまは子供みたいに屈託なく笑っている。
怒っている声も、乱暴に引っ張る手も、自分へ向けられている。それだけで嬉しかった。自分はいつだって、何かを諦めていたような気がする。いつだって何かに焦がれて、それが手に入らないことまで最初から知っていたような気がする。夢の中では、何かとても大切なものを遠いところへ置いてきてしまっていた。何だったのかは思い出せない。ただ、もう取り戻せないのだという寂しさだけが、目を覚ましたあとにも胸の奥へ残っていることがあった。
自分から諦めてしまうのは、とても楽だった。欲しくないふりをして、最初から手を伸ばさなければ、失くしたときに傷つかなくて済む。それは自分にとてもやさしい生き方だった。やさしいだけで、何ひとつ与えてはくれなかったけれど。
だから、桜の花びらが降る朝にあの人を見つけたとき、置いてきたものをようやく見つけたと思った。顔を見ただけで分かったわけではない。それでも気になって、もっと近くへ行って、正面からその顔を見た瞬間、どうしようもなく腑に落ちた。
ああ、このひとだ。理由なんて知らない。名前だってまだ知らなかった。それなのに、ずっと空いていたところへぴたりと何かが戻ってきたみたいに、身体の奥から満たされていった。だから手を取った。「みつけた。俺の大切な人間のアナタ」そう言ったら、返ってきたのは「なんだこのリリカルホモが、手ぇ離しやがれ」だった。
今になって考えてもひどい言い草だと思う。初対面である。もう少しこう、戸惑うとか、頬を染めるとか、何かあってもいいじゃないかと思う。
だけど、すごく嬉しかった。
だって、アナタが俺の言葉を理解して、俺に返事をしてくれた。
呼んだら、返ってきた。好きだと言えば、その意味を知っている。愛してると言えば、きっと呆れたり怒ったりしながら、それでもちゃんと何を言われたのか分かってくれる。言葉を尽くせば尽くしただけ、今度は全部アナタへ届く。なんて幸せなんだろう。
あれ? 俺ってマゾヒストだったのかな。まあ、いいや。首根っこを掴まれて教室まで引きずられながら、男はまた楽しそうに笑った。
もう諦めなくていい。置いていかれないように先回りして手を離す必要もない。今度こそ、好きなだけ好きでいていい。
愛してるよ、アナタ。だから傍に置いてね。俺の大好きな、アナタ。

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