世界で一番超絶可愛い俺のザングース

ザングース は にげだした!

 柵の前で屈み込み、じっと自分を見てくる無遠慮な視線に、ザングースは器用に舌打ちをした。悪気がないのは分かる。だから余計に鬱陶しい。相手は大人の男なのに、何も知らない子供みたいな眼をしていた。警戒も遠慮もなく、ただ知りたいから見ている。そんな眼だった。「君はどうしてそこから動かないんだい? 」『主人が俺を置いてどこかへ行った。約束をやぶった。ゆるせねえ』ザングースが答えると、男の眼がわずかに揺らいだ。悲しんでいるらしい。ただ、その悲しみ方までどこか不自然だった。そういう顔をしなければならないと知っていて、知識の通りに動かしているみたいに見える。人間ではあるはずなのに、人間になりそこなった何かのようだった。

 ザングースがいちばんよく知っている人間は、もっと忙しかった。笑って、はしゃいで、騒いで、勝手に抱きついて、怒られれば大げさに謝って、少し許してやればすぐ調子に乗った。考えていることなんて聞かなくてもだいたい顔に出ていたし、嬉しいときは嬉しそうに、寂しいときは寂しそうにしていた。目の前の男はそれとはずいぶん違う。おまけに、ほとんどにおいがしない。明らかに怪しい。それなのに、なぜか自分の言葉が通じている。どうして人間と会話できているのだろう、と少しだけ思った。でも、それもまた今はどうでもいいことだった。今日も主人は来なかった。

「君の主人を探しに行こうか」

『ここで待ってろって言われた』

「待っていても来なかったんだろう?」

 うるせえバカ。分かっていることをわざわざ言われたくなかった。ザングースは顔をしかめて俯いた。待っていた。ちゃんと待っていたのだ。主人が良い子にしていろと言ったから、何日もここにいた。喧嘩もなるべくしなかったし、勝手にどこかへ行くこともしなかった。飯だって食った。あいつが置いていった服も、別に必要なんかないと思いながら捨てずに置いてある。それなのに、主人の方が約束を破った。

 俯いたザングースの前へ、男の手が差し出された。白くて細い、人間の手だった。「僕はN。君の主人に文句を言いに行こう? 」それは、とても魅力的なお誘いだった。文句を言うだけだ。主人を探して、見つけて、どうして迎えに来なかったのか聞く。それから尻尾で何発か叩いてやる。きっと主人は痛い痛いと騒ぎながら、それでも嬉しそうに自分へ抱きついてくるだろう。そうしたら最初は押し返してやる。すぐには許してやらない。それくらいしないと割に合わない。

 ザングースは、この子供のような眼をした怪しい男を利用することに決めた。良い子に待っていても迎えに来なかった主人が悪いのだ。自分だって本当はこんなことをしたくなかった。待っていろと言われた場所から勝手にいなくなるなんて、主人が知ったらきっと怒る。怒ったあとで心配したと言って、いつものように頭から背中まで撫で回してくるに違いない。何回も、何回も褒められた。『ザングは良い子だね! 大好きだよ! 』耳にこびりつくくらい聞いた、べたべたに甘い声だった。良い子だと言われるたび、そんなの当たり前だと思っていた。大好きだと言われるたび、知ってるとうんざりした顔をしてやった。そうすれば主人はますます嬉しそうに笑った。

 その言葉を裏切ることになる。自分を撫でて、褒めて、可愛がってくれたあの手を裏切ることになる。それでもよかった。良い子じゃなくなってもいい。約束を破ってもいい。勝手に柵を越えて、知らない男についていく悪いポケモンになってもいい。怒られても、もう良い子だなんて言ってもらえなくなったとしても、それすら全部どうでもよかった。もう一度会いたかった。ただ、それだけだった。もう一度。

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